記憶:諦めること2
視界が歪み、目と鼻の先に人影が浮かび上がる。
つばの大きい麦わら帽子を被り、トップスはフィッシャーマンズベストのようなポケットの多いベストに、生成りのリネンシャツ。ボトムスは長ズボンにブーツといった、機能性にフォーカスされた服装に身を包むのは、姉クラウディアだ。
『はぁ、一日中眺められていられるくらい、素敵だわ』
みんなが集まる場所から少し離れた林の木陰で、倒れた木を椅子代わりにして座る姉がうっとりした声を出す。
姉が手にしているのは、生成りの四角い布だ。その布には、織り糸を抜いて刺す刺しゅう、ドロンワークという技法が施されていた。
(布から緯糸や経糸を抜いて、かがったりしただけなのに、なんであんなに複雑な幾何学模様になるんだろう……)
自分には刺繍の才能がないことを悟り、早々投げ出した私には、「素晴らしい作品だ」ということしか理解できない。
『お気に召していただけて、何より』
姉の腰掛ける木に横並びで座り、彼女に微笑みかけるのは、琥珀のかけらがきらきらと光る茶色い瞳の青年だ。
姉と同じように、機能的な探検家スタイルの服に身を包んだ青年は、手にしたナイフを巧みに使い、枝を削り落としている。
「太陽が似合う、生命力溢れるあの人を、どこかで見た気がするんだけど」
(一体どこで見かけたんだろう?)
アーク寮では滅多に見かけない、程よく日焼けした健康的な肌を持つ青年を見つめて首を傾げる。
「ソリス寮の寮長、イアン・クリムソンアーチ。実家は、商業の『大動脈』として知られる、アーチ商会だ」
まるで教科書を読みあげる時のように、淡々と告げるアシェルの声で記憶の扉が開かれた。
「そうそう。ソリスのイアン様だわ」
胸のつかえがとれて、スッキリした気持ちのままアシェルに質問を重ねる。
「ところでアーチ商会は、何で商業の大動脈って言われているの?」
わかりやすく、ため息が返ってくる。
「君は『国内企業と社会』の授業を受けてないのか?あれは確か、二年時の必修科目だったはずだが……」
彼と同じクラスで学んでいたのに、疑いの眼差しを向けられた。
「大抵の人は暗記科目って、テストが終わると忘れるもんじゃないかな」
一般的な意見を口にしたところ、彼は目を見開き固まった。
「いいか、アーチ商会は、魔導船舶造船技術により、その名声を博する商会だ。現在では、我が国における他外国との貿易ルート管理も担っており、まさに我が国の輸入、輸出事業における『大動脈』となっている」
アシェルは私を後退させる勢いで、熱弁を振るってくれた。
「なるほど、とてもわかり易かったわ」
私は息をつきながら、情報を自分らしく整理する。
「つまり彼は、我が国における中産階級のトップに位置する御曹司ってことね」
「そうだな。特に、領地経営で四苦八苦している貴族にとって『娘との結婚を是非に』と、願いたいくらいには、魅力的な男であることは間違いないだろう」
追加された情報で、私はふと気付く。
「ねぇ、もしかして今回お姉様は、無縁だと思っていたはずの、蹴落とすか、蹴落とされるか。壁の花となるか、シミとなるか……。そんな嫉妬渦巻く婚活レースに巻き込まれてしまうんじゃない?」
「壁の花もシミも、本質的な意味は一緒だろう……」
アシェルは呆れ顔だが、私は真剣な話の最中だ。
「いえ、違うわ。花ならまだ摘み取ってもらうチャンスはあるかも知れないけれど、シミになったら目をそらすものとしての運命しか残されていないんだから、絶望的よ」
「まさか、君に結婚願望があるなんて驚きなんだが」
「そうかしら?誰だって好きな人と結婚できるならしたいと思うでしょ?」
「僕に聞かれても困る」
肩をすくめる彼に構わず、私は続ける。
「でも私は自分という人間を良く理解しているから、せめて自分のマイナス属性が平均値になるお相手と結婚できたらいいなと思ってる」
そこで一呼吸おいて、アシェルを見つめた。
「私はこう見えて、現実的な女なのよ」
恋愛にうつつを抜かす、夢見るタイプではないと胸を張って伝えておく。
「……なかなか、望みが高いようだがな」
「夢を見るのは自由でしょ」
意地悪な顔を向けてくる彼に、にこやかに応戦した。
『ドロンワークって、枠を作るのがすごく単調な作業なの。だからつい大作に取り組むのに躊躇してしまうのだけれど、こういった素晴らしい芸術的な作品を前にすると、つい『私にもできるかしら?』って夢見てしまうわ』
姉の明るい声で、ふと我に返る。
(アシェルとのんきに、結婚観談義をしている場合じゃなかった)
気分を入れ替え、姉とイアン様のやりとりに集中する。
『ディアは本当に、刺繍が好きなんだね』
『えぇ、大好き。試行錯誤しながら作った作品が誰かに褒められると嬉しいの』
『SNSとかに投稿したら、いいねを沢山貰えそうだね』
イアン様が何気なく放った言葉に、姉は顔を曇らせ小さく首を振る。
『良くも悪くも注目されるから、私はSNSをやってないの』
慎ましく微笑む姉を見て、イアン様がバツの悪そうな表情になる。
『そっか』
イアン様はナイフで枝を削る手をとめ、しっかり姉と目を合わす。
『俺の個人的な意見だと、刺繍の趣味は褒められることがあっても、誹謗中傷なんてされない気がするけどな』
姉は小さく笑う。
『私の場合、きっと下手でも『この程度』と言われるだろうし、上手に仕上げた作品なら、『自慢ですか?』と感想がつくと思う。仕舞いには、『刺繍を刺せる時間があっていいですね』って、嫌味を言われると思う』
『そんな悪意の塊みたいな人は、ネットでもごく一部だと思うけど』
『私にその意見は当てはまらないわ。だから私はSNSをやらないの』
『本当の君はどう思ってるの?』
イアン様は、心の奥底を見ようとするような、深く見つめる視線を姉に向けた。
姉は手にした美しい幾何学模様の刺繍に視線を落とす。
『本当は、刺繍好きな人と繋がって、刺し方の情報を共有したり、交換したり。刺繍について、思う存分メッセージでやりとりしたいと思ってる』
鳥の鳴き声や、キャンプに参加する者たちの笑い声にかき消されるのを望むような、とても静かな声で姉は本音を漏らした。
『でもね、刺繍が趣味って言うと、『親世代の受けを狙ってる』と陰口を言われたり、『刺繍は女性らしさの押し付けだ』なんて、反発する人もいるのよ』
彼女は布を持つ手を膝に置き、小さくため息をついた。
『だから、私は好きなことを好きと言うのが、怖いのかもしれないわ』
イアン様は彼女の言葉をじっと聞き、削りかけた枝をそっと脇に置く。
『ディア、それでも君は刺繍を刺すのが趣味で、大好きなんだろう?』
姉は驚いたように目を見開き、イアン様を見つめた。その青く透き通る瞳には、どこか迷いの色が浮かんでいるようだったが、やがて微笑みが戻る。
『えぇ、大好きよ。自分の手で何かを作り上げるのは、私にとって、かけがえのない楽しみだもの』
イアン様はその答えに満足したように頷き、優しく微笑む。
『なら、それでいい。世間の声なんて気にしないで、好きなことを続ければいいさ。俺は、君が夢中になれるものを持っているのが、とても素敵だと思う』
姉の頬にうっすらと赤みが差したのが、木陰の柔らかな光の中でもはっきりと見て取れた。
彼女は恥じらうように目をそらしながら、「素敵だわ」と、手元の刺繍に集中するふりをしていたが、その指先が少し震えているのを、私は見逃さなかった。
「そろそろ、記憶の再生が更新されそうだ」
「え?そうなの?」
アシェルの顔を見上げた瞬間、私はまた世界全体をかき混ぜるような、ぐにゃぐにゃした視界に襲われた。




