記憶:諦めること1
『ある日突然、胸がどきどきと高鳴り、蝶のように心が舞い、彼の瞳を見つめる度に、自分を見失いそうになる。
そういった感覚を経験するタイミングは、婚約者がいようといまいと、誰にも平等に、そして突然訪れるものらしい』
少しだけ浮かれたような姉の声が、まるで恋愛小説の冒頭部分のような言葉を朗読している。
(お姉様、今度はなに?)
目の前が淡い光に満たされる。
(まさかとは思うけど、今回はお姉様のラブシーンを見せられたりしないよね……)
視界がぐにゃりと歪む中、ひとりため息をつき、なるがままに身を任せる。
それから数秒後、私は姉の記憶の中に足を踏み入れていた。
もちろん姉の記憶の旅先案内人こと、いつも不機嫌で、気怠そうで、アンデット疑惑のある天才アシェルと共に。
アシェルがパッと私と繋いだ手を離す。
(いまのバイキンみたいな扱いはなに?)
ぞんざいな扱いにむっとして、彼を睨む。
「ふむ。記憶はきちんと展開されているようだな」
私を完全に無視した彼は周囲を見回すと、自分の功績に満足げな声をあげた。
「前回も同じようなことを言ってた癖に、最後は死にそうになった気がするんですけど」
アシェルに不満をぶつけていると、花の甘い香りをのせた柔らかな風が頬に当たり、サマードレスの裾を揺らした。
私は、目の前に広がる光景に視線を移す。
どこまでも続く鮮やかな緑に染まる草原は、その表面が、さざ波のように揺れ動いていた。
「きれい」
風が撫でるたび、草の合間から小さな白や黄色の野花が顔を出す。まるで肩を組んで合唱をしているような、楽しげな花の様子に自然と頬が緩む。
「あー、涼しくて生き返る」
両手を広げ、半透明な体を抜けていく風を感じ、大きく深呼吸する。
「気分だけで涼めるなんて、省エネで羨ましい」
「うるさい。黙ってて」
すかさず野次を飛ばしてきた彼を睨む。
「たとえここがお姉様の記憶の中だとしても、うだるような夏の暑さを忘れるには、最高なシチュエーションであることには変わりないでしょ」
草原の奥に広がる大きな湖の水面が揺れ動き、小さなきらめきを作っている様も、湖の向こう側に見える低い丘とまばらな木々が広がる光景も、私をいっときの現実から逃避させるには充分な光景だ。
「いい空気」
深呼吸を数回し、大自然からの贈り物——新鮮な空気を胸に取り入れる。
「で、何でキャンプ場なんかに」
黒髪を靡かせ、いつもは長めの前髪で隠れがちになる紫の瞳をしっかりとこちらに向けたアシェルは、深くため息をつく。
「ねぇ、前髪切ったの?」
私が指摘すると、彼は慌てたように横を向く。
「あ、わかった。夏休みに実家に帰省するでしょ?だから、親に『だらしがない』ってお小言を言われる前に、慌てて前髪を整えたら切りすぎちゃったパターンじゃない?」
絶対そうだと、確信を持って告げる。
「君は実にデリカシーに欠ける人間だな」
不機嫌な顔で、片手で前髪を必死に押さえるアシェルに、思わず笑みがこぼれる。
「で、何でキャンプ場なんかにいるんだよ」
「サマーキャンプ中だからでしょ」
「サマーキャンプ?燃え立つ炎の前で、原始人よろしく歌って踊り、虫に刺され、外と薄い布一枚隔てただけの防御力ゼロの部屋に寝るという、アレのことか」
彼は、いかにキャンプが嫌いなのかを、紫の瞳に情熱を滾らせ熱弁した。
「……サマーキャンプにそこまで恨みを持つ人を初めてみたんだけど」
「恨みじゃない。理不尽な浪費への純粋な嫌悪だ」
アシェルは肩をすくめる。
「都会で快適に過ごせるにも関わらず、必要に迫られたわけでもないのに、わざわざ不便な場所に足を運び、その不便さを楽しもうだなんて、よほどの暇人か、頭のねじが緩んでる証拠だ」
「そんなこと言わないでよ。お姉様は毎年、あなたの言う理不尽な浪費に参加することを楽しみにしてたんだし、ここに私たちを招いたってことは、きっと何か大事な思い出があるってことでしょ?」
私は草の上にしゃがみ込み、手を伸ばして、風にそよぐ花を指先で撫でようとした。けれど、私の亡霊のように透けた指先は花びらをかすめもしない。
そのことを少々残念に思い、顔を曇らせていると、アシェルに短く問われた。
「君も、毎年ここへ?」
(それは愚問というものよ)
苦笑いしながら、花から視線をそらして顔をあげる。
「奇遇なことに、私もあなたと同じ。理不尽な浪費には反対派なの」
一息ついて、続ける。
「だから毎年、姉がサマーキャンプやら、研修旅行と忙しくしている間、私は冷房の効いたカントリーハウスの自室で文明の素晴らしさに浸って、有意義な浪費に時間を費やす夏を過ごしていたわ」
「やはりな」
アシェルはニヤリとし、満足げな表情になった。
「やはりって、どういう意味?」
「アーク寮の生徒が、サマーキャンプなんて愚かな行事に興味を示すわけがないからな。そのうえ君は、そのありあまる生命力と、傲慢さゆえの神経の図太さで、嫌なことは、きっぱり嫌だと主張するタイプだ」
「何それ。ものすごく馬鹿にされてる気がするんだけど」
ムッとして、アシェルを睨む。
「全然違うぞ、シャルロッテ。僕はいま君を褒めたんだ」
堂々と明かされた彼のわかりにくい真意にため息をつき、立ち上がる。
そのとき、軽やかな笑い声がどこからか聞こえてきた。澄んだ声が風に乗って私たちの耳に届くと、空気が一変した。
「……今の、誰?」
私は音の方を見ようとするが、そこにはただ揺れる草原が広がるばかり。
アシェルは眉をひそめ、手元の小型魔導装置に視線を落とした。
なんでも、前回の失敗を活かし、シナプスレコーダーから、いつでも緊急脱出できるようリモート機能を追加した魔導装置を開発したらしい。
スペルタッチに似た、手のひらサイズの四角い魔導装置の画面を見つめていたアシェルは、顔をあげる。
「記憶の再生が進んだみたいだな」
彼が低い声で告げた瞬間、視界が波打つ。




