記憶:きっかけ3
真っ黒な空間が、私たちの周囲を支配していた。
壁も床も見えず、ただ無限に広がる闇だけが存在する。
「なにこれ?どういう状況?」
足元が気になり、その場で足踏みをしてみる。すると、視覚から情報が得られないせいか、バランス感覚が狂い、ふらついた末に尻もちをついてしまった。
「いたっ!」
痛みと焦り。まるで、闇に引きずりこまれるような感覚に襲われて思わず声をあげる。
「アシェル、どこ?助けてよ!」
「君の隣にいるだろう」
冷静な声が近くで響く。しかし真っ暗で姿が見えない。
「あなたが全然見えないわ。この世界のデータが破損してるんじゃないの?戻れなくなったりしないでしょうね?そんなの困る!」
尻もちをついたまま不安が募り、ヒステリックに叫んでしまう。
「落ち着け。データが破損しているだなんて心配は、僕に失礼すぎるぞ」
声のする方に手を伸ばすと、温かいものに触れた。たぶんアシェルの手だ。
「よかった……いたのね」
そのまま彼の手をしっかり握り、逃がさないようにする。
「流石に君をここに残して戻ったら、うるさいカラスにつつかれる未来しか見えないしな」
アシェルは呆れたようにため息をつきながら、私を起こしてくれた。
立ち上がると同時に彼が私の手を離そうとする動きを感じ取る。
「無理。このままでいて」
こんな不気味な場所に一人置いて行かれたら困ると、彼の腕にしがみつく。
(よかった。半透明仲間だと触れ合えるみたい)
安心する気持ちのまま、彼の腕を掴む手に力を込める。
「おい、不適切な距離だぞ」
こんな状況の時に、思い出したとばかり、紳士的な態度を主張するアシェル。
生命の危機すら感じるこの状況に対し、彼の要望に応えるなんて無理だ。
「で、ここどこ?私はちゃんと戻れるのよね?」
「……さあな。僕にもわからない」
彼の諦めたような声が、闇の中に吸い込まれていく。
「何なのよ、もう。やっぱりデータが破損してるんじゃないの?」
「だから、そんなことはないと……」
彼が何かに気づいたように言葉を止めた。
(やだ、何か来る——)
闇の中で空気の乱れを感じ、咄嗟に彼の腕にしがみつく両手に力を込める。
次の瞬間、暗闇に無数の文字が浮かび上がり始めた。
最初はぼんやりとした赤い点に見えたそれが、次第に線を描き、言葉へと形を変えていく。
次々と生み出された文字たちは、まるで生き物のように規則なく動き回り、空間全体を彷徨いはじめる。
『クラウディア様の動画、ショックなんだけど』
『あれが本心なんだよ』
『困っている子を見過ごすなんて、ほんとに酷いよね』
『未来の王妃があれじゃ、学校も終わりかも』
『ただの偽善者。助ける気ゼロで草』
『ルクス以外の生徒には、差し伸べる手がないってよ』
鋭利な刃物で刺すような、悪意に満ちた文字の群れが、私たちの周りを取り囲む。
『化けの皮が剥がれる日も近いんじゃ?』
『どんなに見た目が良くても、心が汚い人が王妃殿下になるのはやだ』
『侯爵家に生まれてなきゃ、ただの人ってことがバレたよね』
まるで、魔導ネットワーク上にある掲示板の書き込みを見せられているようだ。
「なんなのよ……毒舌の連鎖反応を起こしすぎだわ」
呟きながら、私たちを取り巻く、言葉の鋭さに息が詰まる。
「これは、クラウディア様の心に、傷を負わせた言葉たちなのかもしれないな」
アシェルの声が低く響く。
私は目の前を漂う赤文字『美人だからって調子にのるな』を見つめ、思わず顔をしかめる。
「どうしてこんな酷いことが書かれてるの?フィデリス殿下やお姉様に関する投稿で、あまりに悪質なものは、魔導ネット上から削除されるって話だったのに」
「検索に引っかからないサイトもある。どちらにしても……酷すぎるが」
こちらを威圧するように、大きく表示された『成績のために、誰かれ構わず色目を使ってるらしい』という一文を見つめるアシェルが、嫌悪感を滲ませた。
(さすがに、お姉様はそんなことする人じゃないわ)
姉が過去にこれらの言葉を目にした事実を想像すると、胸の奥に怒りが湧き上がる。
(お姉様を傷つける権利があるのは、私だけなのに)
気づけば、掴んでいるアシェルの腕に、さらに力を込めていた。
アシェルがちらりと私を見て、小さく息をつく。
「大丈夫か?」
珍しく、彼が私に気遣う言葉をかけてくれた。
(怒りは収まらないけど)
あいにく、それを爆発させる相手は彼じゃない。
「この程度の悪意、私にとっては、なんてことないわ。だって私は長いこと、社交界で不名誉な噂を提供する側だったから」
おどけたように肩をすくめると、アシェルは一瞬面食らった表情になったあと、「確かにな」と苦笑する。
「だから、姉と変わってあげられたら良かったのにって、思う」
小さな声で呟く。
「何か言ったか?」
聞き返され、慌てて首を横に振る。
「なんでもないわ」
誤魔化すように微笑む。すると彼は、嘘をつくなと言いたげな表情で、私の顔を覗き込んできた。
『クラウディアは完璧を気取ってるくせに、影ではこれだよ』
『フィデリス殿下も大変だな、こんな女が婚約者で』
彼の視線を避けるように顔を背ける。
周囲では、相変わらず姉を嘲笑し、貶める残酷な文字が絶えず流れていた。
『ルクスのプリンセス様は、下々の者なんて目にも入らないんだろうね』
『あんなやつが友愛の輪賞とか笑わせる』
『ジャスティスリークがなかったら、まんまと黙されるところだった』
初めて目にする言葉にハッとする。
「アシェル見て!」
私はまるで逃げようとするかのように、動き続ける一文を指差す。
「ジャスティスリーク……」
アシェルは、私の指し示す文字を見つめ、眉を顰める。
「きっとこういった書き込みばかり集まる、秘密の掲示板があるんだわ」
(姉を傷つけた人物の手がかりを見つけた)
逃さないと、まるで魚が泳ぐように舞う「ジャスティスリーク」を睨みつける。
「掲示板の住人である生徒たちは、秘匿性を盾に、言いたい放題してたのよ」
思わず怒りで声が震える。
(お姉様が一体何をしたと言うの?ただその場を通り過ぎただけじゃない)
彼女はこの悪意に満ちた文字の嵐を、たった一人で受け止めていたのだ。
「ジャスティスリークか……」
アシェルが低く呟く。
「正義を名乗るものほど、恐ろしい者はいないというわけか」
なぜか自重的に呟く彼の言葉が、暗闇に不気味に響く。
その時、視線で追っていたジャスティスリークという赤い文字が突然、痙攣を起こしたように小刻みに震えた。
それから、周囲を漂う真っ赤な文字が、なぜか私たちに向かって一斉に飛びかかってきた。
「え、なに!?」
息を呑む間もなく、文字の塊が風を切る音とともに私たちに襲いかかる。
「伏せろ!」
アシェルの叫びが響き、私は彼に腕を強く引かれ床におでこをぶつける。
「痛っ。もう少し優しくしてよ」
不満を口にしながら体を起こそうとすると、彼はあろうことか、私の体の上にのしかかってきた。
「ちょっと、重たいってば」
「シナプスレコーダーの出力が落ちて、制御不能になっているみたいだ。しかも僕達が物体を透過する機能も失われているようだ」
アシェルの声は珍しく焦りを帯びていた。そんな彼を見るのは初めてだったため、青ざめる。
「制御不能? 透過しない?ちょっと、冗談じゃないんだけど。私はここで死ぬなんていやよ!」
叫びながら、顔をあげようとすると、またもやアシェルに頭を床に押さえつけられた。
ピュン、ピュンと頭上で風を切る音が頭上で響く。
(見えないと、想像が膨らんで余計怖いんだけど)
悪意ある文字が襲ってくるなんて状況は、さすがの私も笑えない。
「アシェル、何とかしてよ!」
「やっている——が、君も少しは黙ってろ!」
彼の怒鳴り声に咄嗟に反論しかけ、すぐに口を噤む。
(彼の邪魔をするのは、さすがに良くないわ。だって、今はそれどころではないのだから)
突然、空間全体が震え、歪み始めたのを全身で感じた。
「え」
自分の体が、どこかに吸い込まれる感覚に襲われる。
次の瞬間、アシェルに抑え込まれていた私の体は、するりと彼の下から抜け宙に浮く。
「キャー!!」
「シャルロッテ、掴まれ!」
アシェルが片手を私に伸ばす。私は彼の手をしっかりと握る。
「何が起こってるの!?」
「記憶空間の崩壊が始まっている」
アシェルは、片手で私を引き寄せながら、もう片方の手で、宙に円を描く。その中に正三角を二つ重ねるように描き入れ、数字や古代語を次々と書き連ね、、魔法陣を展開し始めた。
振り向くと、赤い文字の群れがまるで巨大な波のように押し寄せてくる。
(何がなんだかわからないけど)
死にたくないという思いだけはわかる。
「アシェル、頑張って!」
叫んだ瞬間、彼が力強く呪文を唱える声が響いた。
「緊急脱出プロトコル、起動!」
その言葉とともに、シナプスレコーダーの空間がさらに激しく揺れ動き、視界が明滅する。
全身を激しい光と熱が包み込む。
音も、視覚も、全てが吹き飛び、ただひたすらに圧倒される感覚が私を襲うのであった。




