記憶:きっかけ1
視界がぐにゃりと歪む。足元が揺れて周囲が薄闇に沈む中、まるで霧の中を漂う亡霊のように、自分の体が半透明になっていることに気付いた。
「どういうこと?」
呟く声はかすかに響き、空間に溶け込む。
手を繋ぐ感覚はあり、横を向くとアシェルがいた。
彼は何も言わず、顎で前方を示す。促されるまま、前を向き目を凝らすと、色鮮やかな景色がゆっくりと形を成していく。
高くそびえる尖塔に、鋭角のアーチが多用された窓。どっしりとした石造りの壁は、見慣れた学校の校舎のようだ。
洪水のように押し寄せる風景に意識をとられていると、ふと、足の裏に地面を踏みしめる感覚が蘇ってきた。
「なかなかうまく行ったようだ。しっかり記憶が展開されている」
アシェルはパッと私から手を離し、周囲を確かめるように見回した。
どうやら私が立っているのは、中庭に面した古びた石畳の回廊のようだ。回廊には、長く伸びた夕暮れの光が差し込んでいる。
今は放課後なのだろう。中庭の噴水の縁に腰掛け、顔を寄せて一つのスペルタッチを仲良く覗き込むカップルや、ガーデンテーブルを囲み、魔法のカードゲームを楽しむ生徒の姿があった。
見慣れた光景が広がる中、誰も私たちを気にかける様子はない。
「これは、お姉様の記憶の中なんだよね?」
「そうだ」
「私たちの姿は、あの人たちからは見えないの?」
至近距離にいるのに、こちらを見向きもせず、目の前を横切る女子生徒を目で追う。
「僕たちは今、他人の記憶に、第三の視点として侵入している状況だ。だから、この場では部外者扱いとなり、誰にも察知されることはない」
アシェルは歩きながら、教科書でも朗読するような口調で説明する。
「あ、だから亡霊みたいに体が透けてるんだ」
歩きながら、自分の半透明になった手を見つめる。
「つまり、食堂とか、職員室とか、勝手に入っても、誰にも気付かれないってこと?」
(もしそうなら、食べ放題だし、テスト問題を盗み見することができるってことになるけど)
実行するところを想像した途端、試してみたいと体がウズウズしだす。
「君の言動を見ていると、本当に侯爵令嬢なのか、疑問に思えてくるのだが」
アシェルはいぶかしげな視線を向けてきた。
彼が口にした疑問は、今日に始まったことではない。日頃から良く指摘されるため、「いまさら気付いたの?」と、肩をすくめる。
「でも私だって、あなたが侯爵子息だとするには、疑わしい点をたくさん知ってるわ」
(社交性に欠けるところとか、女性にも等しく辛辣なところとか。それから――)
挙げだしたらきりがなくなりそうなので、やめておく。
「どちらがより貴族の名を語るに相応しくないかについての議論は、引き分けで許してあげる」
「そうだな。その件に意識を向けることよりも、他人の記憶の中で、悪事を働こうと考える君には、もっと伝えておくべきことがあるようだから」
珍しくアシェルが私の意見に同意した。
(ま、嫌味っぽいところは、いつも通りだけど)
私は口を閉じ、彼の話に耳を傾ける。
「いいか?君の目に映るこの世界は、あくまで記憶が再現された世界だ。そして、ここは過去であり、何も変えられないし、干渉すらできない。僕たちができるのは、記憶の中を漂うことだけだ。もちろん触れることだって出来ない」
彼はちょうど脇にある、回廊を支える石柱に向かって、大きく片手を振りあげる。
「やめておいた方がいいと思うけど」
アシェルがこれから行うと予測される、自虐的な行動に顔をしかめる。
「まぁ見てろって」
彼は、躊躇せず石柱に拳を叩きつけた。
「……え!?」
目の前で起きた光景に、目を丸くする。
アシェルの拳が石柱に触れた瞬間、柱の表面が波打つようにゆがんだ。それから、彼の拳は石柱をすり抜けていく。
数秒後、ゆがんだ石柱は、まるで何事もなかったかのように、元の姿に修復された。
「つまり、こういうことだ」
唖然とする私に、アシェルは得意げな表情になる。
「じゃあ、私たちはここで何をすればいいの?」
「ただ、見ていればいいだけだ」
彼が再び回廊を歩き始めたので、私もついていく。
(見てるだけかぁ)
口をつぐみ、視線を彷徨わせた。
ここには、私の知る学校の空気感がそのまま残っている。
生きている人々のざわめきや、夕陽に揺れる影が生々しすぎて、つい、記憶の中だということを忘れそうになる。
(でもここは、お姉様が私に見せたい記憶の中)
自分に言い聞かせると、急に落ち着かない気持ちになってきた。
「見てみろ。あそこだ」
アシェルの声に反応し、彼の視線の先を追う。すると、回廊の向こうにスッと滑るように動く人影があった。
「あれは……お姉姉?」
夕焼け空を映す黄金色の髪をなびかせながら、姉は回廊を早足で進んでいる。彼女の腕にはノートがどっさり抱えられており、顔にはわずかな焦りが見えた。
姉の存在に気付いた生徒は、にこやかな表情になり、羨望の眼差しを向けている。
「お姉様……」
数ヶ月前まで、当たり前に永遠に続くものだと思っていた光景が広がっていた。
「お姉様!」
反射的に身体が動き、姉に駆け寄ろうとする。
「無駄だ」
背後からアシェルの静かに諭す声が飛んできた。
「これはただの記憶だ。声をかけても届かない」
一歩踏み出した足を止め、下ろした手を強く握る。
その時だった。
回廊の向こうから、教科書を抱えた少女が駆けてきたかと思うと、足を滑らせて盛大に転んだ。その拍子に抱えていた教科書が地面に無惨に散らばった。
転んだ生徒に気付いた姉が足を止める。
『……まぁ、大丈夫かしら』
少し離れた場所にいた彼女の呟きは、まるで風に乗ったかのように、私の耳に届く。
姉は少女に歩み寄ろうと歩き出す。だが、その途中で立ち止まる。
『私の出る幕はなさそうね』
姉の呟き通り、周囲には人が沢山いて、誰もが転んだ少女に気付いた様子だった。
姉はそっと背を向け、その場を後にした。
「あ、お姉様を追わないと」
姉の姿を追いかけようと歩き出した瞬間、視界がぐにゃりと歪む。
「え、なに?」
足元が揺れ、周囲が薄闇に沈む。それからすぐ、舞台の暗転を済ませるように、目の前に新たな景色がじわじわと広がった。




