私にできること
通学路はいつものように、朝の光が白っぽく差し込んでいた。
淡い靄がかかった景色の中、吐く息が白く、冬用となる濃紺のローブで必死に体を包み、誰もが学科塔に向かって無表情で歩いている。
(うぅ、寒い)
春先に、朝露を浴びてきらきら輝いていたルミナフロラは、冬の寒さを前にすっかり姿を消していた。その代わり、冷たい氷のように透き通った花びらを持つ冬の花、フロストリリィに植え変わっている。
「フロストリリィの時期なのね。寒いわけだわ」
「見る者に希望を与えるとか言うけどさ、寒空に寒そうな花を眺めても、希望なんてこれっぽっちも感じないんですけど」
「でも、花弁を煎じて飲むと、体が冷え知らずになる魔法の薬が作れるらしいわよ」
「あー今週の薬草学の授業は、確かそれだったよね」
時折、肩をさすり、体を縮めながら歩く私の横をソリスの生徒が通り過ぎていく。
(寒そうに見えるという意見には一票)
そう言えば、フロストリリィをじっくり見たことがないことに気付いた私は、立ち止まって花びらを眺めてみる。よくよく観察すると、透明に見えていた花びらは淡い青色を宿していた。透き通った薄いガラスのように儚げで美しい。
「アシェルに共有してあげよっと」
ローブのポケットからスペルタッチを取り出し、カメラを花に向ける。
「うわ、あいつまた、女の癖にパンツ履いてる」
「スカートを履かない女って価値ねーし」
耳障りな笑い声が空気を刺すように響く。周囲の生徒たちが肩を寄せ合い、振り返り、クスクスと笑い始める。
それはまるで火種に風が吹き込まれたみたいに、あっという間に広がっていった。
その中心にいたのは、一人の女子生徒。モスグリーンのネクタイの色から察するに、ソリス寮の生徒のようだ。彼女はパンツスタイルの制服に身を包み、背を丸めていた。顔は伏せられ、表情は見えなかったけれど、冷ややかな視線や笑い声が、その背中に突き刺さっているのがわかる。
「最低」
私は首に巻いたマフラーに隠れた口元で呟く。飛び火する状況は避けたいので、声をあげて注意するつもりはない。
「ほんと、変わらないわね」
呟いた言葉にハッとする。
変わらないのは、意地悪な男子生徒だけじゃない。嫌な思いをしている人を庇う勇気ある者は存在しないという状況が、変わらない。
(もちろん私だってそう)
頭の中では「やめなさいよ」だとか「誰が何を履こうと自由でしょ」なんて、文句が浮かんでは消えていくのに、実際の私はただ立ち尽くしているだけ。
笑い声を残して男子たちが去っていったあと、その場に残ったのは静かな空気と、からかわれた子だけだった。
他の生徒たちは相変わらず、まるで灰色の影みたいに学科塔へと流れていく。誰も振り返らない。誰も気にしない。
『何もせずにいることすら、誰かに影響を与えているのよ』
この場を見なかったことにしようとする私をお見通しといった、そんな姉の声が聞こえた気がした。
意地悪な男子にからかわれた、パンツ姿の彼女はゆっくりと息をついて、再び歩き出そうとする。
「関係ないなんて、通り過ぎちゃ駄目だよね」
私の声が静かに響く。
(だって、みんなどこかで繋がって、影響し合っているから)
ギュッと拳を握り、私はパンツ姿の女子生徒に背後から近寄る。
「ねえ」
彼女がビクリと肩を上げて振り返る。目が合った。その瞳は怯えているように見えるし、無理に無表情を保とうとしているようにも見えた。
「パンツスタイルって、いいよね」
私の声は、どこか場違いに明るかったと思う。でも、止まらなかった。
「動きやすいし、何より自由って感じでさ。私も今度履こうかなって思ってるんだよね。スカートってさ、なんだか窮屈だし、風でめくれるし、いろいろ面倒くさいじゃない?」
彼女は目を丸くしたまま、少しの間じっと私を見ていた。返事はない。でも、その顔に浮かびかけた笑みの影を、私は見逃さなかった。
「じゃあ、またね」
私はそれ以上何も言わず、歩き出した。振り返らない。振り返る必要もなかった。
(余計なお世話かも知れなかったけど、たぶん合ってる)
朝の通学路はまだ白っぽい光に包まれたままだったけれど、その中で私は少しだけ前に進めた気がした。
これが正解なのかはわからない。でも、少なくとも、私は何かを変えようと行動した。自分自身を。世界を。ほんの少しだけでも、良い方向へ向かうようにと。
現に、声をかけたその瞬間から、何かが変わった気がした。
いつもの朝が、少しマシになった程度だけど。
明日また同じことが起きるかもしれないけれど。
それでも、見過ごすことを選択していた時より、今の自分の方がいいと思えた。
*誰が姉を殺したの?*完*