離れているけど、近い
アーク寮の自室のベッドの上で、貴族年鑑のぶ厚いページをめくる。早速あかんべーをする伯爵と目があった。不快なので次のページをめくる。
「……で、どうなの?スカイギアの生活は」
派手な衣装で澄ました顔をする夫人の魔法写真を眺めながら尋ねた。
『まぁ、悪くないよ。思ってた以上に忙しいけど』
枕元に置いたスペルタッチからアシェルの声が聞こえてくる。彼の声は少し疲れているようだったので、少し心配になる。
『授業はほとんど実践だし、教授陣も一筋縄ではいかない人ばかりなんだ。魔導工学の基礎を叩き込まれてる感じだな。でも、面白い』
アシェルが本当にやりたいことを見つけて、それを全力で追いかけている。彼の楽しそうな姿が浮かび、自然と微笑んでしまう。
「それならよかったわ。忙しいのは良いことだもの」
彼が軽く笑う。
『君は何をしてるんだよ』
「寝る時のお供を、まるでネットショッピングするかのごとく眺めてる」
『寝る時のお供?』
「貴族年鑑よ」
『ふむ。貴族年鑑。僕が前に言ったことを気にしてるのか?』
「そうじゃないわ」
私はページをもう一度めくり、退屈そうな顔をした貴族の魔法写真と目を合わせる。
「来年には私も成人だから、いろいろ準備しないといけないのよ」
(将来、あなたの妻として恥ずかしくないようにね)
もちろん、そんな顔から火が出るほど恥ずかしい気持ちは、誓って口にしない。
『準備ねぇ。お見合い相手でも探してるのか?』
アシェルの冗談に、私は思わず吹き出した。
「そうね。私は二年も放置されるわけだし、本腰入れて、浮気でもしようかしら」
彼を困らせる気満々で告げる。
『…………今すぐ帰国する』
「冗談に決まってるでしょ」
笑いながら、否定しておく。
「ただ、私にも最低限の教養があることを、貴族社会に見せつけてあげようと思って」
『君が貴族社会と真面目に向き合うなんて、ちょっと感動だな』
「うるさい」
言い返しながら、私の顔には自然と笑みが浮かんでいた。
こんな風に何気ない会話をしていると、彼が遠くにいることを忘れそうになる。けれど、スペルタッチが拾う馴染みない生活音を耳にすると、嫌でも遠く離れている現実を思い知らされて、やっぱり寂しい。
「今日は何を習ったの?」
『魔導ギアの圧縮機構を改良するには結晶核の配置を――』
ページをめくりながら、私は適当に「うん」と相槌を打つ。
『圧縮機構が安定すれば、導力の漏出を大幅に減らせる。もちろん、それには――』
「うん」
『結晶核の配置を逆転させる案もあるけど、そうすると振動が――』
「うん」
アシェルの声は熱を帯びてくる。耳障りな声ではない。でも、話している内容があまりに専門的すぎて、完全に理解を放棄していた。
『ギアの圧縮率を上げるために、新しい魔力誘導材を試してみているんだが、従来の金属ではなく、エーテル系樹脂を使う方法なんだ。ただ、この素材は耐久性が問題で……しかし理論上、導力の漏出を0.2%以下に抑え――』
欠伸を一つして、私は貴族年鑑を閉じる。そして部屋の明かりを消して布団の中に深く潜り込む。
『反射板の素材に導力耐性の高い魔晶石を使うと、どうしても振動が出るんだ。どうしても、共振の周波数が合うのが原因だとは思う。だから、対策として多層構造にして共振を分散させるって案があるのだが、それだとコストが跳ね上がるし、製造工程が複雑になるから……ロッテ?』
「何?」
『退屈だと思ってるだろ』
スペルタッチ越しに響く彼の声に若干の呆れが混じっている。私はごまかすように笑った。
「そんなことないわ」
『嘘だ。君は嘘つきだが、嘘が下手だという欠点持ちだ』
「確かにアシェルの話は難しいわ。でも、私は結構楽しんでたのよ」
『難しいのに、なんで楽しめるんだよ』
「本当に楽しんでたんだけど」
『だったら、どうして相槌が『うん』だけなんだよ』
「あなたの話は難しいけど、あなたの声は好きだもの」
アシェルが黙り込む。
『……じゃ、話自体には、全く意味がないじゃないか』
「違うわ」
『違う?』
「どんなに話が面白くても、生理的に受け付けない声だったら、そもそも話を聞くことすら無理でしょ?」
今度は少し長い沈黙があった。私は微笑んでスペルタッチを握りしめる。
『……実に、君らしいとんでも理論だな』
アシェルが、諦めたように小さく笑った。その声が耳に心地よい。
「でも、今の話は本当に面白いと思ってたのよ。少なくとも、あなたが難しい話を熱く語る時の声の調子は好きだから」
『……そうか。なら、よかった』
どこか照れくさそうな彼の声に、私は「うん」と答えた。
「だからあなたの声を聞かせて」
『……そう言えば、最近読んだ論文で、導力を完全に遮断できるフィールドの理論が発表されていたんだ。しかし、実験ではまだ数秒しか持たないらしくて』
「うん」
『面白いのは、そのフィールド内では魔力の作用がゼロになるって点だ。もし実用化できたら魔導兵器の無効化にも使えるんじゃないかと騒がれていて――』
アシェルの声が遠のいていく。
『寝落ちした?』
遠くから彼の声が聞こえた。
「して……ない……わ」
遠く離れた場所で、同じ夜を過ごしている彼の存在を身近に感じながら、私は幸せな気持ちで眠りにつくのだった。