月光舞踏会4
「実は、今日で学校をやめる」
突如明かされた彼の言葉は、夜の静けさに吸い込まれるようにして消えていった。
「……学校をやめる?」
自分でも驚くほど乾いた声。
隣にいるアシェルは、気まずそうな顔をしながら小さく頷く。
「スカイギアにある魔導工学院の編入試験に合格したんだ。全寮制で、二年間みっちり学ぶ。そのあとこっちの大学には戻ってくる予定だけど……しばらくここを離れる予定だ」
言葉の端々から、彼がもう心を決めていることが伝わってくる。
風が吹いて、髪が頬に張り付く。それを指先で払いながら、どうにかして返事をしなければと焦る。でも、どの言葉を選んでも足りない気がした。
「……そうなんだ」
結局、それだけしか言えなかった。
アシェルは少しだけ眉を下げて笑う。
「驚かせたよな。悪い。でも、セラピー施設にいる時からずっと考えてたことなんだ。この学校は素晴らしい。けれど、ここでやれることには限界があるって気づいた。僕には、もっと実践的な環境が必要なんだ」
夜空を見つめる彼の目は、決意に満ちていた。私がよく知っている、物事を決めたときのアシェルの顔だ。
「……アシェルが決めたなら、いいと思う」
本当にそう思っていた。それなのに、心が痛む。胸の奥にぽっかりと穴が空いたような、そんな感覚。
「応援するよ」
口にしながら、石壁に添えた手が少しだけ震えているのを感じた。でも、そんなこと気づかれたくなくて、わざと明るい声を作る。
「たまに手紙とかくれる?あ、でも返事が遅れたらごめんね。私、筆不精だから」
アシェルは少し困ったように笑った。
「手紙でもいいけど。どうせ君は、魔導ネットでメッセージを送ってくるだろ?」
「あー、それもそうだね」
「時差は二時間もないから、通話もできるし」
「たしかに。そう考えると、遠い気がしないかも」
彼とたわいない会話を交わす。けれど、胸の奥の穴は広がっていくような気がした。これが最後ではないと分かっているのに、どうしようもない寂しさが押し寄せてくる。
でも、私は知っている。今ここでその気持ちを彼にぶつけても、何も変わらない。アシェルはもう決めているし、その決意を私は尊重したい。
だから、私がするべきことはただ一つ。笑顔で見送ることだ。
「二年後には戻ってくるんだよね?」
アシェルは少しだけ目を細めて頷いた。
「ああ、そのつもりだし、長期休みには必ず戻ってくる」
「その時は、また一緒に、私の思いつきに付き合ってくれる?」
「もちろん」
アシェルが笑ったその瞬間、風が吹き抜けて彼の髪がふわりと揺れた。その姿が、やけに遠く感じられた。
「あのさ、キスしていい?」
「え」
明らかに戸惑った様子のアシェルの声が、夜風に溶けていく。
私は自分の発言に内心驚いていた。でも、後悔はしていない。
「だめ?」
私の声が、少し震えている。
アシェルはしばらく黙っていた。月明かりが彼の横顔を照らしている。
「......僕が戻ってこないと思ってるのか?」
「違うわ」
首を振る。
「ただ、今のアシェルにキスしたいの」
彼は静かに私の方を向いた。紫色の瞳に、星が映っている。とっても綺麗だ。
「......いいよ」
アシェルが近づいてきた。
心臓が早くなる。
でも、私は目を閉じなかった。
彼の姿を、しっかりと覚えておきたかった。
唇が触れる。ほんの数秒。長すぎもせず、短すぎもしない。
離れた時、アシェルの頬が赤くなっていた。
私も、きっと同じ。
「......もう一回」
「欲張りだな」
彼は小さく笑う。
「欲張りだから、私とあなたは生きてるのよ」
「確かにな」
はにかむ笑みを浮かべて彼の顔が近づいてきた。
今度は目を閉じた。
風が止んで、世界が静かになる。
これが私たちの、最初で最後の夜。そんな気がしてきた。
でも、終わりじゃない。
彼からキスしてくれたから、そう信じられた。