姉の罪2
姉は慌てて近くの茂みに隠れた。
『離して、叫ぶわよ!』
生垣の隙間から現れたのは、エリザ様だ。
「姉さん?」
アシェルが呟く声に被せるように、姉の声が聞こえてきた。
『エリザ……?』
茂みに隠れた姉は目を細めている。
『や、離して』
エリザ様は怯えた表情で、自分の手を引っ張る青年から逃げようとしている。
どう見ても男女の駆け引きとは言い難い状況に緊張が走る。
(あの人、どこかで見たことがあるような)
絹で仕立てた、見るからに上等なスーツを着ていて、撫で付けたブラウンヘアー。少し離れた場所から様子をうかがう私にも確認できるくらい濃いそばかすが印象的な男性。そこまで見た目は悪くなさそうだ。
「あの男は、モンタギュー伯爵家のパトリックだ。父が『つきまとうな』と、あいつに文句を言ったことがあるくらい、以前からしつこく姉さんを狙っている」
アシェルが怒りを殺した低い声で、相手の男の素性を明かす。
残念ながら「そうその人!」とならないのは、貴族年鑑をおぼろげにしか覚えていない、私の知識不足のせいだ。
『君が親友のフリをしながら、クラウディア様の悪口を呟く、鍵アカウントを知っているんだぞ』
パトリックが放った言葉を理解した瞬間、心臓が冷たく縮こまるような感覚に襲われた。
(鍵アカでエリザ様がお姉様の悪口を?)
聞き間違いかと、耳を疑う。
『違う!私は……そんなこと……』
エリザ様は必死に否定する。そんな彼女の腕をパトリックはさらに強く掴む。
「くそっ」
アシェルが悔しそうに悪態をつく。
(半透明な私たちには、何もできない)
何度も姉のピンチを前に、ただ見ていることしかできなかったので、彼の悔しい気持ちはわかる。そっと、彼が握りしめた手を包むように触れる。すると、彼はしっかり私の手を握り返してきた。
『ほら、これは君のアカウントだろう?』
パトリックがポケットからスペルタッチを取り出し、エリザ様に画面を見せる。
『違うわ』
『あくまで嘘を突き通すつもりなんだな。だったら、今から証明してやる』
パトリックはエリザ様が逃げ出さないように、彼女の腕に自分の腕を絡ませた。そしてスペルタッチの画面を素早く操作する。
ホールから漏れ聞こえる優雅な音に混じって、エリザ様のドレスのポケットから、軽快な音が鳴り響く。
「マナーモードにしておけよ」
アシェルがため息をつく。
『今すぐ、君のスペルタッチを確認してみろ』
パトリックが低い声で迫る。
勢いに負けたのか、エリザ様は恐る恐るといった様子で淡いブルーのドレスのポケットに手を入れ、スペルタッチを取り出す。
『ほらな。君のスペルタッチに通知が届いているじゃないか』
勝ち誇った表情でパトリックが告げる。
「どういうこと?」
アシェルにたずねる。
「あいつは姉の裏垢とされるアカウント宛てにDMでも送ったんだろう。そして姉はアカウント宛に届いたメッセージをいちいち通知をする設定にしていた……馬鹿なのか?」
彼はエリザ様を睨む。
「な、なるほど。まぁ、うっかりミスは誰にでもあるし」
項垂れるアシェルを励ますように、彼と繋いだ手をギュッと握る。
『クラウディア様は、親友だと思っていた君が影で悪口を言っていると知ったら、悲しむだろうな』
彼の声は冷たく鋭く、エリザの顔は青ざめるばかりだった。
(でも、どうしてエリザ様は悪口なんて呟いちゃったのかしら……)
二人が心からの親友同士に見えていた私は、疑問に思う。
『嘘よね、エリザ』
姉の声が直接心に響き、私は生け垣に顔を向ける。そこには、信じられないといった表情を浮かべた姉がいた。
『この場で、俺の言う通りにすれば、言わないでおいてやるよ』
パトリックがエリザ様を脅す。どうやらここで終わりではないらしいと気付き、嫌な予感と共に身をこわばらせる。
心臓がどきどきして、苦しい。出来れば今すぐに逃げ出したい。
アシェルが私の手をギュッと掴む。私は彼の手をさらに強く握り返す。
私たちは励まし合うように、馬鹿みたいに力を込めて手を握り合う。
(でもまだ、お姉様がいる)
期待を込めて、姉に顔を向ける。彼女は茂みの中で体を硬直させていた。足を一歩踏み出そうとする動きが見えたが、それ以上は動かない。
(お姉様。どうして動かないの?助けてあげてよ!)
私は叫びたくなる衝動を必死に押し殺した。どんなに叫んでも声が届かないことを分かっているからだ。
『嫌……やめて……』
エリザの震える声が聞こえた次の瞬間、パトリックが彼女の唇を奪った。エリザは抵抗しようとするが、その力は弱々しく、彼の力に敵わず、されるがままになってしまう。
パトリックは、そのままエリザ様を芝生の上に押し倒す。彼の手がドレスのスカートの中に潜り込む。
「やめて!!」
(もう見てられない)
エリザ様の元へ向かおうと地面を蹴る。しかし、アシェルに手を引かれ、彼の胸に抱き込まれてしまう。
「僕らには何も出来ない。せめて、見ないであげてくれ」
掠れた彼の声。ぎゅっと彼の胸に抱き込まれた私は、ドクンドクンと彼の心臓の音を感じた気がした。
半透明な状態でアシェルに抱き込まれる私の目に、パトリックに襲われるエリザ様が容赦なく映り込んでくる。男にのしかかられる彼女の目は、全ての感情を遮断するような無が浮かんでいた。
私はたまらず、目を背け姉が隠れる生け垣に顔を向ける。
姉はただ目を見開き、茂みの中で震える手を握りしめるだけだった。
「くそっ」
アシェルが私をさらに強く抱きしめる。それは私を守るというより、彼の中に発生するどうしようもない怒りを、何とか堪らえようともがいているようで。
私は彼の背中に自分の手を回す。
(私とアシェルは触れ合えるのに、どうしてエリザ様を救うことが出来ないのよ)
悔しくてギュッと目を瞑る。
これは過去にあったことで、変えることのできない事実。
(でもだからって、仕方ないなんて思えないわ)
何より……。
(どうしてお姉様は助けなかったの?)
心に浮かぶ、怒りや悔しさは、姉を責める気持ちに全力で向かう。
一歩勇気を出して生け垣から飛び出せば、エリザ様が被害にあうことはなかったはずだ。
「お姉様、どうしてよ」
呟いたその瞬間、景色が揺れて姉の小さな囁きが聞こえた。
『親友だと思っていた彼女の裏切りを聞いた私は動けなかった……いいえ、動かなかったのよ』
姉の独白に心が苦しくなる。
『助けようと思えば、助けられた。けれどあの時の私は、深く考えることを放棄した。もう疲れていたの。ただ逃げ出したくて、消えたくて、夢だと思いたくて、見てみぬふりを選択した。だから私はパトリックの共犯なの……』
姉の声には、深い後悔と自責の念が滲んでいた。
姉はその場から動けなかった自分を、ずっと責め続けていたのだ。
足元がぐらつき、記憶の霧が薄れていく中、私は必死にとアシェルにしがみついていた。
姉の罪――それは、助けられたのに助けなかったこと。彼女が最も後悔し、隠していた秘密は、取り返しのつかないことだった。