逃げる1
なんとなく気まずい気持ちで、私たちは宿屋へ向かう。
(やっちゃった)
本能のまま行動しては駄目だと、あれほど自分を自制していたはずなのに、ついアシェルを襲ってしまった。
(彼が許してくれたからいいけど、自分からキスするとか……あ)
私は密かに重大なことに気付く。
(さっきの、私のファーストキスだし!)
子どもの頃から夢見ていた……ような気がする初めてのキスは、こんなにも呆気なく、そして曖昧な気持ちで経験してしまった。
「はぁ……」
ため息をつくと、グイッとアシェルに腕を引っ張られた。そしてあっという間に路地裏に連れ込まれてしまう。
「ど、どうしたの?」
壁に背をつけた私の顔の両脇に手をつき、険しい表情で通りをうかがう彼に動揺しながらたずねる。
「ち、近くないですか?」
彼の喉仏に問いかける。
「宿屋に近づくにつれて、治安官の数が増えている気がする」
「え、潜伏場所がバレたってこと?」
「だろうな」
彼は私の隣に背をつけ腕を組む。密かにアシェルと距離が離れたことにホッとする。
「でも、アリダさんはいい人だったわ」
豪快に笑い、テキパキと店を仕切っていた宿屋の中年女性を思い浮かべる。衣料品店や動物病院を快く教えてくれた彼女は、どう見ても悪い人には見えなかった。
「目の前で金貨をチラつかせられたら、誰だって心は揺れる」
アシェルの真剣な表情を見て、ようやく事態の深刻さを理解した。
(宿屋のアリダさんがどんなに親切でも、アシェルの言うことの方が信じられるし)
「でも、どうするの? 他に行くあてもないし」
アシェルは少し考えるように視線を下げた。
「ここでじっとしていても捕まるだけだ。身を潜められる場所を探そう」
「そんな場所、あるの?」
「適当な廃屋とか……最悪、野宿だな」
「また野宿!? 寝袋とか便利グッズは宿屋に置きっぱなしじゃない」
声を上げると、アシェルが慌てて自分の口元に指を当てた。
「騒ぐな」
「あ……ごめん」
彼の声が低く響き、息を飲む。
「なんとかして安全な場所を見つけよう」
彼は顔を上げた。
「さっき路地を抜けた先に古い教会みたいな建物があった。使えそうかもしれない。調べてみよう」
「わかった。ついていくわ」
力強く答える。
路地裏からさりげなく姿を現したアシェルが少し先を歩き始める。私はその背中を追いながら、心の中で必死に自分を励ました。
この街で彼と一緒に逃げ続けるというのは、きっと無理だ。それは理解している。
(でも、まだ終わらせたくない)
ギュッと唇を噛みしめる。
夜風が冷たく感じる中、私たちは俯きながら路地を進む。街灯の明かりがぼんやりと石畳を照らす。私は足音が響かないように、気をつけて歩みを進めた。
その時、大通りから複数の足音が聞こえてきた。
「こちらです!目撃情報があったのはこの通りです!」
「チッ」
アシェルが舌打ちする。私たちはまたもや、路地裏の奥へと素早く身を潜めた。
「報道されている貴族の子どもを探しています!見かけた方は必ず通報を!」
近くで治安官の声が響き、身を強張らせる。
「シャルロッテ、屋根に上れるか?」
「え?」
アシェルが指差した先には、古い建物の外壁に取り付けられた梯子があった。
「あれを使えば、建物の屋上まで行ける。追っ手から逃れやすい」
「でも、スカートだし……」
「今はそんなことを言っている場合か」
彼に促され、私は仕方なく梯子に手をかけた。
(ああ、お母様に見られたら叱られそう)
スカートが捲れるのを気にしつつ、慎重に梯子を上る。
「早く」
急かすアシェルが後に続く。
「この先に逃げ込んだと情報が!」
突然下から声が上がった。私たちは息を潜める。
「確認します!」
大通りから足音が近づいてくる。
「早く!」
アシェルが私の背中を軽く押す。私は必死で階段を駆け上がった。
屋上に出た瞬間、ジョディアの夜景が目に飛び込んでくる。
現代建築と、古代建築が融合する他にはない不思議な景色だ。
遠くにはコロッセオも見える。
「歴史を感じるわ」
「いまさら遅い。追っ手が上がってくる。飛び越えるぞ」
「は?」
アシェルが隣の建物の屋根を指差す。距離はそれほどないものの、間には確実に隙間がある。
「ちょ、冗談でしょ?」
「本気だ。僕が先に飛ぶ。その後すぐに飛べ」
アシェルは指先で魔法陣を素早く描く。
「流れる風よ、我らが身体に浮遊の力を」
緊張した声の詠唱完了と共に、魔法陣から緑の光が放たれる。弾け飛ぶ光は、私たちの体を包み込むと、パッと消え去った。
「え、アシェルってそっち系の魔法も使えるの」
「僕を誰だと思ってる。当たり前だろ」
得意げな表情を見せる彼。
「さすがです、隊長!」
かつてないほど、彼を頼もしいと思う気持ちのまま告げる。
「全く君は……」
文句を言いながら彼も笑う。