テミスをたずねて5
ヘルマンはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「クラウディア様は、私に多くのことを打ち明けてくれました。完璧であることを求められる苦しみ、誰にも本当の気持ちを理解してもらえない孤独。そして、恋愛感情を抱く相手との破局に、フィデリス王子との婚約による重圧」
彼は一呼吸置いて続ける。
「でも、私は彼女の悩みに対して、何も真摯な答えを返せていなかったのでしょう。レンカの真似をして、表面的な共感を示すだけでしたから」
「それって、結局お姉様を騙していただけ。そういうことになりませんか?」
責めるような口調にならないよう、最新の注意を払いながら放ったはずの言葉に、彼は深くため息をつく。
「ええ。だからこそ、私は会わないことを選んだのは正しかったと思います」
「どうしてですか?」
「会ってしまえば、私の嘘は全てばれる。そうしたら、クラウディア様は誰にも本音を話せなくなってしまう。綺麗事かも知れない。でも私は……彼女の逃げ場を奪いたくはなかった」
「逃げ場?」
「はい。クラウディア様にとって、テミスとの会話は現実から逃れられる唯一の場所だった。それは私自身、痛いほどわかっていました」
彼は壁に掛けられたレンカさんの写真に目を向けながら続ける。
「私だってレンカのフリをして、現実から逃げていたのですから」
ヘルマンは苦笑する。
「でも、結局その逃げ場すら、嘘で塗り固められていたわけですよね」
苦々しい気持ちを抑えきれず、冷たい言葉を投げつけてしまう。
「その通りです」
トゲトゲしい私の指摘をヘルマンは素直に認めた。
「私は彼女を助けることができなかった。ただの偽物が、本物の友人のように振る舞ったって、何の力にもなれなかったんです」
彼の声は次第に小さくなっていく。
「私には、クラウディア様が死に至った直接の理由はわかりません。ただ、彼女が苦しんでいたことは確かです。そして私は、その苦しみに寄り添うフリをしていながら、少しも支えることができなかったのです」
静かな告白を聞きながら、私は改めて姉の孤独を思う。
(お姉様は誰にも本音を話せなかった。信じていたテミスにすら、結局は嘘の共感しか得られなかった)
それでも姉は、最期までテミスを信じていた。その事実が、今の私の胸を締め付ける。
「クラウディア様のことは、本当にお悔やみ申し上げます」
全てを告白したとばかり、ヘルマンは深々と頭を下げた。
その姿を見て、私は何も言えなくなった。憎しみや怒りは確かにある。でも、それと同時に、身近にいながら姉を避けた自分は、彼より酷い。
「先ほど、あなたは彼女がこの家に来ることを予測していたような発言をなさっていた。それはなぜですか?」
すっかり忘れていた違和感を、アシェルが掘り起こす。
「そうだ。大切なことを忘れていました」
彼は立ち上がると、机の上の木箱の方へ向かう。そして、小さな包みを取り出した。
「実は先日、テミス宛ての荷物がクラウディア様から届いたんです」
「テミス宛て?お姉様から?」
思わず声が上ずる。
「ええ。中にはこの包みと、手紙が入っていました。手紙には『私のことでこの場所を訪れる者に渡してほしい』と書かれていて」
ヘルマンは手のひらサイズの、小さな包みを私に差し出した。
「受け取ってください。これは、あなた宛てでしょうから」
私は恐る恐る受け取る。手にした包みは意外に軽く、見るからに高価な紙で包まれており、その結び目には姉の家紋が刻印された封蝋が押されている。
(間違いない。お姉様からのものだわ)
確信した私は、震える指で封蝋を外して包み紙を広げる。すると、中から滑らかな手触りのする立方八面体の結晶と手紙が姿を現した。
「これは……」
水晶のような透明感のある結晶を手に取り、光に透かして見る。内部には複雑な回路が輝いて見えた。
「旧式のバックアップ結晶?」
思わずアシェルを見る。
「どう見てもそうだろうな。あの人は、まだ僕に仕事をさせる気だったのか……」
うんざりした顔で愚痴るアシェル。
「手紙を読んでみたら、あなたが探し求めている理由が少しはわかるかも知れませんね」
ヘルマンの声に促され、白い封筒を見つめる。滑らかな手触りを確かめていると、どこかで嗅いだフローラルな香りが鼻にまとわりついた。
(この香り、どこで嗅いだんだっけ……)
記憶を探り、そしてハッとする。
(アシェルの家の庭で隠れていた時に、バイオレット様から漂ってきた香りに似てる気がする)
「まさか、これって」
バイオレット様の香水の香りが微かに手紙から漂う理由。それは、コンラッド侯爵家にこの手紙が保管されていたからに違いない。
「つまり、この手紙は姉の記憶の中で、エリザ様に託したものってこと?」
自分が発した言葉で、全てが一つになる。
「そもそも、カラスは郵便局に小包なんて出せないもの」
カラスの姉に代わり、エリザ様が旧式のバックアップ結晶と手紙の入った小包を郵便局に持って行ったに違いない。
「絶対そうだわ。だって、私たちがサマーキャンプをしている間、姉のお世話はエリザ様に頼んでいたし。時間はたっぷりあったでしょ?」
同意を求めるように、腕組みするアシェルにたずねる。
「ふむ。クラウディア様はカラスになったことで、計画を変更したのかも……いや、きっとそうだろうな」
アシェルの視線が私の手元にある旧式のバックアップ結晶に移動する。
「一つだけ別のデーターとして残されたそれは、本来であれば君に託すつもりのなかった記憶なのだろう。けれど、カラスとして再び蘇った彼女は、以前のクラウディア様ではないからな。新たな計画を付け足した」
「つまり、カラスの人格が混ざって、私に見てほしい記憶を追加したってこと?」
アシェルが頷く。
「カラス?記憶?」
蚊帳の外になっていたヘルマンが訝しげな表情を私に向ける。
「いえ、何でもありません」
私は手にした白い封筒を見つめる。
(つまりこれは、カラスになったお姉様からの、本当に最後のメッセージなのね)
震える手で封を開き、手紙を慎重に取り出す。いったん目を閉じて心を落ち着かせた。
ゆっくりと、二つ折りになった手紙を広げる。
視界に飛び込んできたのは見慣れた姉の筆跡――ではなく、タイプライターで打ったような文字だ。
(カラスは文字を書けないものね……)
姉が私に残した最後のメッセージだと再び確信した途端、嫌でも鼓動が早まる。
私は深く息を吸い込んだ。
(お姉様は、私に何を伝えたかったの?)
私は不安な気持ちで手紙へと目を落とした。