はじめての野宿3
「……殺したいリスト?自分を?」
聞き間違いだろうかと、恐る恐るたずねる。
アシェルは、炎をじっと見つめながら軽く笑う。
「安心しろ。本当に死ぬつもりはない」
「なら良かったけど」
「死ねない弱さがあるから、どうやって自分を殺そうかなんて、そんなくだらないリストを作り、気を紛らわせていただけだ」
付け足すように放たれた言葉が、冗談なのか本気なのか分からず、私は困惑してアシェルを見つめた。青痣が痛そうな彼の横顔は、いつも通り淡々としていて、感情を読み取るのが難しい。
「憎しみは、思ったより簡単に人を支配するものだ。僕を取り巻く環境では、特に」
「……それでも、今は少し変わったってこと?」
「そうだな」
アシェルは金属製のカップに口をつけ、一口スープを啜る。少し間を置いてから続けた。
「生きることに……前に進むことに貪欲な君といると、自分を憎む代わりに、自分を生かす方法を考えるようになった。それが、何だか新鮮なんだ」
炎に照らされ、顔の痣が照らされる彼は、ゆったりとした声で気持ちを明かした。
「そんな風に言われると、なんだか嬉しいわ」
少し誇らしげに胸を張って微笑んで、すぐに笑顔を引っ込めた。
「けど、私は真逆だわ」
「真逆?」
アシェルに頷く。
「ええ。私は自分が悪いなんて、これっぽっちも考えたことがなかったから。私はずっと、お姉様が死ねばいいって思ってたし、何なら空想の中では、もう何十回と首を締めたり、魔法で攻撃したり、階段から突き落としたり、進行方向にバナナを置いたりとか――」
「ストップ。殺害方法の種類については、十分理解できた。話の続きを」
「そう?わりとマニアックな方法も、思いついたりしてたんだけど、知りたくない?」
「結構だ」
ぴしゃりと拒絶されたので、とっておきの殺害方法は披露しないでおくことにした。
「実際お姉様が勝手に亡くなって、私は彼女を許せなかったの。何より家族が間接的に私が彼女を追い詰めたって思うことに、腹が立って仕方がなかったのよ」
当時を思い出し、カップを握る手に力が籠もる。
「だから、最初は身の潔白を晴らすために、お姉様の死に至る理由を調べようと思ったの」
自分の醜さを明かす私の話を、アシェルは黙って耳を傾けてくれている。
(正直に話して嫌われたら、それまでよ……でも、できれば)
嫌われないといいなと思いながら、話を続ける。
「あなたを巻き込んで、お姉様のことを調べていくうちに、実は彼女は完璧じゃないって知って、正直今は複雑な心境」
カップに入ったトマトスープで喉を潤す。少し酸味ある味が、私の気分を落ち着かせる。
「……もちろん、お姉様がどうして死を選んだのか。まだ答えは見つからないし、彼女がみんなと同じように、弱い部分を持っていたことを知って、辛い気持ちになる。でも、少なくとも今は、もうお姉様を殺したいとは思ってないわ」
「それは良かった」
アシェルはカップを置き、軽く体を伸ばす。焚き火の光に照らされた彼の表情は、いつもより少し柔らかい気がした。
「ねぇ、お姉様のことを語る時の、私の表情ってどんな感じ?」
ふと気になって、アシェルに尋ねる。
「そうだな...」
彼は少し考えるような素振りを見せてから、答えた。
「最初に会った頃は、クラウディア様の話をする君の目は、狂気じみていた」
「狂気?」
「だってそうだろう?自分の姉の墓を暴くなんて、常人の考えとは思えない」
「あー」
思い当たる節があるため、納得してしまう。
「でも今は、少し違う」
「どんなふうに?」
「悲しみや怒りというよりは、何か、懐かしむような……そんな表情をしている」
私は無意識に自分の頬に手を当てた。確かに、姉に対して以前感じていたような激しい感情は薄れている気がする。代わりに、複雑で言葉にできない何かが、心の中にじわじわと広がっている。
「お姉様って、私以上に孤独だったのかも知れないわ」
ゆらゆら揺れる、炎を見つめながら呟く。
「完璧を求められる立場で、誰にも弱音を吐けなくて……」
「君と似ているな」
「えっ?」
「君だって、実はそんなに捻くれた人間ではないのに、周囲から誤解されている」
スープを飲みながら、彼の言葉に耳を傾ける。
「クラウディア様も君も、独特なルールがある貴族社会の枠組みの中に無理やり押し込められ、その枠組みの中で、自分の心を押し殺すことを強いられている点では同じだ」
「そうかもね」
「まあ、それは二人に限ったことではないが。何にせよ良かったじゃないか」
「良かった?」
「ああ」
アシェルは頷く。
「ずっと憎んでいた相手を許せたんだ。そんな風に思えるようになったのは進歩でしかないだろう?それに、人の死を受け入れるのは簡単なことではない。けれど、君は確実に前に進んでいる」
彼の言葉に、私は無性に泣きたくなってしまった。
「ありがとう。あなたにそう言ってもらえて、少し気が楽になったわ」
アシェルの優しさに、私は心から感謝した。
彼は私の目を見て、「こちらこそ」と少し微笑むと、再びカップに口をつけた。
「ねぇ、アシェル」
「なんだ?」
「私ね、今すごく幸せよ」
「……そうか」
彼はそれだけ言うと、黙ってスープに口をつける。
「僕も、君がいてくれて良かった」
焚き火の炎がパチパチと音を立てる。夜風が頬を撫でていく。
「明日からは大変だろうけど」
アシェルが言う。
「でも、きっとなんとかなるさ」
「うん」
私は静かに頷く。
(最低な一日だったのに)
不思議と心の奥底に温かいものが灯っている。
*
焚き火を消し、ランタンの心もとない灯りを頼りに、寝袋を広げて横になる準備をする。
地面は思ったより冷たくて、硬くて、これから迎える一夜がどれほど不快なのかを想像するのは難しくない。でも、それを口に出しても意味がないことも理解している。
「夜は長いぞ。さっさと寝ろ」
すでに自分の寝袋に入り込んだアシェルが、躊躇する私を見透かし、声をかけてくる。
「分かってるわよ」
私は彼に背を向け、寝袋に身を滑り込ませた。焚き火の残り火がぱちぱちと音を立てる中で、森の静けさが耳に染みる。
「明日は絶対、シャワーを浴びたいわ」
「確かに」
「それに、もっと計画的に行動する必要があるわね」
「ああ。まずはスペルチェックに寄せられた情報を確認して、クラウディア様を取り戻そう」
「最悪、人を殺める覚悟で」
「流石にそれはやりすぎた」
「ふふ、冗談よ」
「君のは冗談に聞こえない」
葉の揺れる音に、虫の声。それからフクロウが鳴く声が響く森は不気味だ。
その上、寝袋は狭いし、汗臭い自分。髪はボサボサだし、日焼け止めをこまめに塗れなかったせいで、顔が痒い。
(私は一応侯爵家の娘なんだけどな)
あり得ない状況に笑ってしまう。
「最低な状況なのに、笑える自分が不思議だわ」
小さく呟いた私の言葉に、背後からアシェルの声が返ってきた。
「少なくとも、今は孤独じゃないからだろ」
眠そうな声で放たれた彼の言葉に、一理あると納得してしまう。
孤立した状況の中で、私たちはお互いの存在に頼らざるを得ない。それが心強いのか、単に気休めなのか、まだよく分からない。
(でも孤独じゃない)
それはだいぶ勇気が出る言葉だ。
焚き火の光が少しずつ弱まり、私はまぶたを閉じる。夜の森は、私たちを試すように静寂を保っていた。
「私は、あなたをもっと好きになれそうな気がするわ」
呟いた私に、アシェルからの返事はなかった。