8 水の上位精霊アリエル
「なんなんだもう! 新しい精霊と契約したなんて聞いてない!」
レッドフィールド家の邸宅では、アリーシャの精霊一人一人に部屋が与えられている。アリエルは自らに与えられた部屋の壁に、思いっきり拳を打ち付けた。それを宥めるようにシシャが口を開く。
「なぜそう苛立つ。お前はアリーシャを主に仰ぎたかったんじゃないのか」
「っ、それは、そうだけれど。私たちを『捨てて』すぐに新しいやつを受け入れるなんて、信じられない」
そう言うと、アリエルは自らの爪を食んだ。
彼は酷く苛立った様子で部屋をうろうろし始める。シシャは壁に寄り掛かったまま半眼でそれを眺めた。至極どうでもよさそうな目線を送られて、アリエルがシシャに食って掛かる。
「シシャは悔しくないのかっ!? ミスティアは私たちがアリーシャの下へ行くと言ったとき止めもしなかった。本当、冷たいよ」
「…………俺の望みは半分叶ったから悔しくはない。ミスティアは、上位精霊3体を維持できるほどの魔力がなかった」
「お優しいことで!」
アリエルは冷たい声で吐き捨てると、ふかふかのソファへと乱暴に座った。彼は精霊が居なくなり追いつめられたミスティアが、自分に縋ってくれると信じていた。しかしその目論見はあえなく失敗に終わり、こうやってシシャに当たり散らしている。
「どうせすぐに見放されるに決まってる、そうだろう?」
「どうだかな。見た感じ、ミスティアに忠誠を誓ってるように思えた」
「じゃ、じゃあ、あいつとミスティアが仲を深める可能性もあるってことか!?」
「なくはないだろう」
「そんな……」
アリエルは眉を下げ、俯いた。
自分を召喚したミスティアに対して、最初から裏切ろうと目論んでいたわけではない。
始めのうちは、仲良くなりたくて彼女の周りをうろついた。しかし、魔力減衰のためミスティアは彼たちの相手をする余裕はなく――。青ざめた顔で歩くのがやっと。故に彼女は魔力を上げるためといって、図書室や自室に引きこもってしまう。『せっかく召喚に応じてくださった精霊様がたを、私の力不足で失うわけにはいかない』と。精霊は主の魔力を必要とするため、顕現するのもなにごとも主に依存するからだ。
学園へ通ってはいたが、休み時間さえも読書。それ以外の時間は、帳簿をつけたりハウスメイドの仕事をもくもくとこなしていた。アリエルはそれらを横目で眺めていただけである。誇り高い精霊が使用人のような仕事をするわけにはいかない。
――彼女には、精霊達と交流する気が無いように思えた。
また、信じられないことに、ミスティアには侍女が居ない。以前は居たのだが、問題が起きてレッドフィールド家から去ってしまったのだ。ちなみに、アリーシャには令嬢付きが1人仕えている。入れ替わりは激しいが。
そのために、令嬢であるというのに髪はボサボサ。服だってつぎはぎだらけの物を身に纏い、大変貧乏くさい。いつも本を小脇に抱えている灰色の令嬢を、アリエルは自然と見下した。
(魔力を上げるだなんて、出来るはずがない。ミスティアには無理だ)
1人家門のためひたむきに努力する彼女に、いつしかアリエルは近寄らなくなっていった。彼女を信じることができなかったのだ。
(だけどミスティア。私はあなたが可哀想で、愛おしくて、心配だ。そもそも契約したのが間違いだったのかもしれない。あんなに頑張らなくても、私が離れてあげた方がミスティアのためになる。それが君の幸せなんだ)
一滴の毒が、アリエルと言う精霊の心にぽたりと落ちた。その毒は強力だった。『可哀想だから、契約破棄させてあげよう』という、とんでもない考えを生み出してしまったのだから。
ある晴れた日、まだミスティアとアリエルが主従の関係だった時である。
「ミスティア。アリーシャと共に街へ行ってくるけど、いいかい?」
「……はい、お気を付けて」
のりの匂いが漂う洗濯室。ミスティアはアリエルに一瞥もくれない。アリーシャのいいつけで、普段着のドレスを縫っているためである。指先はいくつも布が巻いてあった。寝不足の中の作業なので、針を指に挿してしまうのだろう。
ミスティアがこのように冷たい対応なのは理由がある。そもそも精霊が主のもとを離れて遊ぶなど、考えられないことだからだ。本来は、主の安全に精霊が気を配るべきなのである。だがミスティアは『気晴らしも必要だろう』と渋々許していた。
(なぜ『行かないで、そばにいて欲しい』と言ってくれないんだ? なぜミスティアは私を見てくれないんだ)
だがそんなミスティアの心配りもむなしく、アリエルはまったく別なことに思いを巡らせていた。『自分を必要としてほしい。縋って欲しい』という欲望が満たされず、それは次第に怒りへと変わっていく。
「ああ、私の服もほつれていたんだった! これも頼むよ」
そう言うと、アリエルは羽織っていた外套をおもむろに脱ぎ、ミスティアの手元にぽんと投げた。作業しているミスティアの手が覆われて、ピタリと止まる。そして、気だるげなヴァイオレットの瞳がアリエルを射貫いた。
その瞬間だけ――アリエルの心は満たされる。
「時間がかかりますが、よろしいですか?」
声は平坦で事務的だ。アリエルはカッとして、怒りに顔を赤くさせる。そして感情のままに外套を彼女から奪い返し、それを今度は強く投げつけた。ミスティアは思わず目をつむってしまう。その衝撃で手元の針が指に刺さった。
「……っ」
痛みに顔がゆがむが、アリエルは気づかない。
「街から帰ってくるまでに仕上げておいてくれ!」
アリエルはそう言い放つと、足早に去っていった。ミスティアは、ぽかんとしつつドアの方をしばらく眺めた。だがしばらくすると、また縫物の作業を再開したのだった。
こうやってアリエルは度々かんしゃくを起こすのだ。
廊下を足早に歩くアリエルは、ミスティアの瞳を思い出していた。紫水晶は半貴石とされて安価だ。だがどうして、瞳に宿ると胸が締め付けられるほど、美しい。どんな貴石よりも。
アリエルは、初めて召喚された時、ミスティアと目が合った時。その時から、あの薄い紫水晶の瞳にとらわれていた。
――ひと目惚れだった。
「ミスティア……愛してる、愛してる……」
だから私が嫌われ役になって、貴方を救ってあげる。と、アリエルは独りごちた。彼は物語に出てくる悲劇のヒーローになった気分で、ミスティアへの恋慕に浸ったのだった。