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12 大事なものはあなた以外にない

 女子生徒の学生寮は東棟にある。

 

 赤煉瓦で積まれた外壁には緑の蔦が這っていた。ミスティアたちは、東棟の端っこにある角部屋に案内された。ミスティアはベルを撫でたくてうずうずしていたが、ベルは案内が終わればスルリと足元を抜け早々に離れていってしまった。ミスティアは名残惜しそうにベルの後姿を見つめる。


 すると突然ベルがピタリと足を止め、振り返った。ミスティアはドキリとして金色の瞳を見つめ返す。


「決闘とあらば相応しい装いをしてらっしゃいね。あと、侍女レディーズ・メイドは居ないのかしら? 今回は仕方ないとして、入学までには雇っておいでなさい」


 ツンと気取った高い声。鈴を転がしたように甘い響き。ミスティアは誰かが居るのかと辺りを見回した。だが見事な模様の絨毯が敷かれた廊下には、人っ子一人いやしない。


「どこを見ているの? お馬鹿さん。いいこと、くれぐれもメアリーに恥をかかせないでよね」


 その声はどうやら下方から発せられている様だった。


 ――精霊の気配。ミスティアは人型である上位精霊以外の精霊をあまり見たことがない。そのため気づくのが遅れてしまった。ミスティアは焦りながら彼女(・・)へカーテシーを披露する。それを見たベルが長いしっぽを少しだけしならせた。


 声の主は、この美しい黒猫であった。


「あら、礼儀はなっているようね」


「申し訳ございません、精霊様とは知らず……。あの、決闘に相応しい装いというのは一体どのようなものなのでしょうか」


「そこの精霊は教えてくれなかったの? あなた酷いざまよ。髪は伸びっぱなしだし、服もボロボロ。ここはあなたの家じゃないの。家で縫ったつぎはぎだらけの服は見苦しいわ。メアリーが気にかけた子がそんな様子じゃ、彼女が恥をかくでしょ。舞踏会も開かれるのだから、勿論華やかなドレスを仕立てておきなさい。言っておくけれどあなたが剣を振り回して戦う訳じゃないんだから、もしズボンなんて履いてきたら頭をこづくわよ」


 ベルは早口で畳みかけた。


「は、はい。ドレスですか。お恥ずかしながら、身一つで家を飛び出してきたもので。財産になるものを何一つ持っておりません。どうしたら良いものか……」


 ミスティアは頬に手を当てて唸った。この可愛らしいレディを怒らせたくはないが、綺麗なドレスなんて持ち合わせていない。ドレスを仕立ててもらうためのお金もすべて叔父が握っているのだ。すると、今まで静かだったスキアが口を開いた。


「それならこれを売ると良い」


 スキアはミスティアの近くに歩み出て、腰に下げてあった短刀をベルトから引き抜いた。見事な彫刻の鞘。スキアは、その鞘からゆっくりと剣を抜く。


「わあ、なんて綺麗な瑪瑙めのう石。精霊刀ですね。見事な品です、売るなんてとんでもない。これは持ち主の無事を祈る守り刀じゃありませんか」


 ミスティアは、青い瑪瑙を薄く削った美しい短刀に目を奪われた。彼女は審美眼に自信があるわけではない。だが素人から見てもこの短刀の造りは目を引くものだった。精霊刀を売れば、ドレスどころか立派な邸宅さえ買えるという話を聞く。眉を下げてミスティアはスキアを見上げた。


「なら本来の役目を果たせる。主に恥をかかせる精霊は名折れだ。俺の心の無事のために役立ててくれ。ミスティアが売らないと言うのなら、その猫の主に頼むとしよう」


「あら、いいわ。この子よりメアリーの方が質には詳しいだろうし。……けれど次に猫といったら噛みつくわよ」


「それは失礼を、小さなレディ」


「フン」


 ベルがそっぽを向くと、スキアは目を細めてくすりと笑った。そして彼は精霊刀を鞘にしまうと下緒を器用に鞘へ結んで、ベルの首に短刀をかけてやった。2人の間でどんどん進んでいく話に、ミスティアが割って入る。


「ちょ、ちょっと! スキア。駄目です、こんな高価なもの……!」


「侍女を雇うのにも色々と物入りだろう。さあ、行ってくれ」


「承ったわ」


「精霊様、お待ちください! 貴方様は入学までって仰りましたが、私が勝つと決まったわけじゃありません」


「だって、そりゃあ」


 ベルは月が浮かんだ金の瞳でスキアを見た。ミスティアの後方、肩越しに見えるスキアが『静かに』と人差し指を唇に当てた。ベルはため息を吐き、再びミスティアに視線を戻す。


「兎に角メアリーが目にかけている子なんだから、勝つに決まってる。負けたら許さないからね。それじゃあ、私は行くから」


「精霊様っ……!」


 ミスティアの制止も空しく、ベルは軽やかに廊下を駆けていった。そして今度は、振り返ることなく。ミスティアは胸のあたりで拳をぎゅっと握った。


 貰って、ばかりだ。スキアには命も助けられたし、前に進むために助力してくれた。いつだって彼は優しく、ミスティアに手を差し伸べ続けている。その上きっと彼が大事にしていただろう精霊刀も手放してくれた。


(私は、何も持っていないのに。こんなんじゃ、スキアに何も返せない。返せなかったら、きっとまた……)


 裏切られる。スキアに背を向けられると想像しただけで、彼女の心はずきりと軋んだ。


「大事なものだったのでしょう」


「今の俺にとって、大事なものはあなた以外にない」


「そんな、こと」


 信じられないと思った。だって精霊刀は特別な守り刀だ。きっとスキアを大事に思う誰かが、かつて彼に捧げたのだろう。精霊刀は流通が少ないために、贈る目的が限られる。主な目的は、婚姻相手に捧げるためのものだ。


「過去に大事な人から、貰ったものなのでは? そんな大切なものを売ったお金で買うドレスなんて着られません」


 ミスティアがそう言うのも尤もだった。だがスキアの行った行動も、主を助けるという意味では正しい。そんな八方ふさがりな状況を破ったのは、スキアの唐突な、押し殺したような笑い声だった。


「……くっ、くく。過去の大事な人、ね。そんなもの居るわけない。俺にとって大事な人はミスティア以外居ない。昔も今も。あれは呪うべき品だ。俺が居ないと困る者たちから捧げられた供物。あなたが心を砕く必要は一切ない。しかしもし大事なものだったとしても、なんら惜しくはないさ。だがあなたは優しいから苦しいだろう。そうだな」


 遠い過去を憎む眼差し。普通ではない様子のスキアに、ミスティアは息を呑んだ。なにが彼を苦しめたのだろう。知りたいが、傷を抉るのが怖くてミスティアは押し黙る。ややあってスキアが再び口を開いた。


「舞踏会では最初に、俺と踊って欲しい」


 そうしてできれば、自分以外との誰とも踊らないで欲しい――とスキアは言葉を飲み込んだ。あまりに欲のない願いにミスティアはまた胸を刺される。


「それは、私からお願いしたいくらいです。社交界では変わり者と噂されていますし。それに私……スキア以外とは踊りたくないです」


「嬉しいが、これからはそれじゃ困る。あなたは自分の殻を破った小鳥の雛だ、いつかは巣立たねば。俺の主が悪い噂話を立てられているのは我慢ならない。やってくれるか?」


「……スキアのためなら、頑張ってみます」


「素晴らしい」


 そうやってまた優しくスキアが微笑む。ミスティアは胸のどこかを、柔らかい羽でくすぐられた心地になった。他人にここまで優しくされたのは初めてで。どうやったら彼が喜んでくれるか、笑ってくれるかで頭がいっぱいになる。すると自然にミスティアは、スキアに向かって柔らかくほほ笑んだ。かつての約束は忘れて、思いのままに。


「ありがとうございます、スキア」


「!」


 ミスティアは気づいていないだろうが、彼女が笑うと花が咲くようだ。決して太陽の下で咲く向日葵ではなく、崖に咲く白い山百合のような。スキアは恭しくその場で一礼すると、ミスティアに手を差し伸べた。その洗練された動きに、ミスティアはドキドキと胸が高鳴る。まるで物語の王子様が目の前にいるようで。美しいプラチナブロンドがきらりと輝いた。


「私と踊って頂けますか、マイ・レデイ」


「……喜んで」


 また、ミスティアが『予行練習ですね』と笑う。スキアはこの世で一番愛している大切なものを見つめるように、彼女を見つめた。そんな風に視線を送られて、ミスティアは頬が熱くなる。


(そんな目で見られたら勘違いしちゃいそうだから、止めてほしいわ)


 スキアの掌はとても大きく、簡単にミスティアの手を包み込んでしまった。指先が触れただけで、心が蕩けてしまう。ミスティアはこの感情の名前を知っていたが、知らないふりをした。そして、心の奥底にそっと蓋をしたのだった。



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