ACT01 深夜の鐘
初秋の夜が更けてゆく。
王都レグノリアの神殿の森の片隅にある雑木林の奥に、代々神官を務める家系のシェフィールド家の屋敷がある。
シェフィールド家の屋敷の居間は、あちこちに灯された燭台の灯火で明るい。
サキが夜通しの刀術の稽古で出払っているのが常だが、今夜は三姉妹が珍しく一緒にいる。
それぞれが、めいめいやりたいことをやっているが、それでも三姉妹が一カ所に集まった暖かな空間だった。
長女のセアラが魔道書で魔道の勉強をしている隣で、三女のスーは足元に丸くなった白い子猫のティムの姿を、大きな紙に木炭で丁寧に描いていた。
居間の大きな机に王都レグノリアの絵地図を拡げ、サキは腕を組んで考え込んでいた。サキが目で追っているのは、ヴァンダール王家の霊廟の詳細な絵地図だった。
サキは、半月後に行われる王家の霊廟の警備配置を確認しているところだった。
王族の近衛兵も来るから、人数的には警備に不安はないが、神域のため神殿警護官も動員される。
合同警備の場合、お互いの連携が鍵になる。
基本的に、近衛兵と神殿警護官は疎遠な間柄だった。不仲というわけではないが、縄張りが違いすぎて接点がほとんどない。近衛兵がどのように動くのか、サキには見当がつかない。
(調整役は誰だろう?)
自分の思考が高速で回転しているを、サキは自覚していた。
頭が熱くなっている。
考えるのに疲れたサキは、絵地図から顔をあげて大きく息を吐き出した。
サキの吐息に反応したのか、大人しくしているのに飽きた白猫のティムが、背を伸ばして起き上がった。
「こっちも、描き終わりっと……我慢しててくれてありがとうね」
ティムの姿を描き終えたスーが、今度はティムと遊び始めた。
干し肉の小さな欠片を、スーが背中に回した左右の手の中で入れ替えた。
「ティム? どっちの手におやつが入ってる?」
スーが、両手をティムの前に出した。
ティムが、スーの手の臭いを嗅いだ。
「どっち?」
スーの問いに反応し、ティムが片手を伸ばしてスーの左手に乗せた。
「あっ、すごーい! ティムって賢いのねぇ」
スーが、そっと左手を開いた。
ティムが、おやつの干し肉に素早く顔を近づけた。
「じゃあ、今度はどっちが多い?」
ティムは、左手に一つ、右手に二つの小さな干し肉を握ってティムの前に差し出した。
ここ数日間、スーは子猫のティムに数が数えられるのかを確かめていた。
「スーちゃん? 何をしてんの?」
「だって、ティムとお話がしたいんだもの。ティムが何を求めているのか、何を考えているのか知りたいもの……せめて、是と否がわかると、サキ姉ちゃんもうれしくない?」
「そりゃそうだけど……お腹が空いたとか、眠いとか、遊んでってのは鳴き声と態度でわかるわよ」
「サキ姉ちゃんは、ティムにとって特別な存在だから」
サキは、衰弱したティムを拾って助けた本人だった。猫は屋敷に招き入れた恩人の存在を、忘れないという。尻尾が二股に分かれ金目銀目の白猫のティムは、化け猫要素が満載だった。オバケ嫌いのサキだが、このティムが、伝説のレオナ姫が王都レグノリアに残した霊的守護の魔法陣を守るために遺した霊猫だと、サキは信じている。
ティムは、確かに普通の子猫ではない。猫は本能的に水を嫌うが、この子猫は水が好きだった。水桶に自ら飛び込み、平然と水浴びをする。犬並みに賢く、シェフィールド家の中での躾は一発で覚えた。お腹が空けば姉のセアラに催促すればいいことは、真っ先に覚えた。遊んで欲しい時には妹のスーにすり寄ればいい、サキは寝床扱いだった。朝になってサキが起きると、寝相の悪いサキが寝台から落ちそうになっていて、サキの代わりにティムが枕を占領していることもしばしばだった。
そして、この屋敷の力関係も把握している。サキの母親マオが屋敷内での一番の権力者ということも、サキの両親のダンとマオがシェフィールド家の所領から戻ってくるなり察知し、マオの前ではさかんに媚びを売る。
「それより、サキ姉ちゃんは何してんの?」
「お務め……半月ばかり先に、王家の霊廟でなんか大切な儀式があるんだってさ。他の国の偉い人も参加するみたいだから、祭礼の時期でもないのに、あたし達神殿警護官も駆り出されてるの」
サキは、そう言って再び絵地図に視線を移した。
そこは、代々のヴァンダール王家の墓地だった。
毎日信者が参拝に訪れる神殿と違い、年に何回か王族の儀式が執り行われる程度で、一般市民の立ち入りもない静かな霊廟だった。
だが、今回は国王陛下だけでなく、他所の国からの賓客も参列する儀式があるという。このため、王家の近衛兵も神殿警護官も動員される。
「もう、式典まで半月もないってのに……警備の配置も、何も決まってないんだってさ」
「へぇ-、サキ姉ちゃんも大変なのね」
「セアラ姉さんとスーちゃんとは、立場が違うけどね……神殿の警護も、手薄にするわけにもいかないしね」
サキは、机上に拡げた絵地図に再び目を落とした。
絵地図に描かれた霊廟の敷地のどこに、何人が警護に立つかを確認しようと思考を再開した。
「?」
目の前に、ひょいと白い影が動いた。
考えることに熱中していたサキは、やっと目の前の光景に意識が移った。
白い影は、机上に音も立てずに飛び乗った白猫のティムだった。サキに構ってもらえないことが不服だったのか、ティムはサキの邪魔をするように地図のど真ん中に寝そべった。
「ティム、ちょっとそこに尻尾を置かないでね」
サキは、ティムを突っついた。
「なんで、あんたはあたしが見ようとしている部分を隠すのよ」
サキに突っつかれ、ティムが渋々寝返りを打った。
今度は、霊廟の東側がティムの身体で隠された。
「もぉ!」
サキには、ティムが狙ってサキの邪魔をしているようにしか見えない。
せっかくまとまりかけたサキの思考が、無意識の彼方に消えてしまった。
「ティ~ムぅ~っ! あんたのせいで、何を思いついたのか忘れちゃったじゃん!」
頭にきたサキは、実力行使に出た。
ティムの首根っこを摘まみあげ、自分の目の高さにぶらさげる。
サキに首根っこを摘まみあげられたティムが、サキの手にぶらさがったまま不服そうにサキを見つめる。金目銀目と呼ばれる、青と黄色の眼が珍しい。
「あんたは、相変わらずやんちゃだねぇ」
ティムの金目銀目も珍しいが、長い尻尾の先が二股に割れている化け猫要素満載の猫だった。事実、サキの前だけでは時々本性を見せるが、姉のセアラや妹のスーの前ではそんな妖怪の素振りを決して見せない。
奇妙なのは、ティムが相変わらず子猫の姿のままということだった。もうちょっと大きくなってもおかしくないのに、子猫の大きさのままで成長が停まってしまったようだった。
だが食欲は成猫並に旺盛で、元気一杯だった。
「お願いだから、もうちょっとだけ、遊ぶのは待っててね」
ティムを床に置いたサキは、ティムが尻尾を振ったのを見て、挨拶代わりに軽くティムの尻を叩いた。
「?」
不意に、ティムが何かに反応した。
ティムが、警告の唸りをあげた。毛を逆立て、耳を倒して虚空の一点を睨みつける。先端が二股に割れたティムの尻尾が、大きく膨らんでいる。
「えっ?」
途端に、どこからか聞き覚えのない鐘の音が響いた。
突然の鐘の音に驚いて、サキは顔をあげた。
思わず、三姉妹が顔を見合わせた。
「この鐘の音……神殿の鐘楼じゃないわね。音がした方角も、鐘の音色も聞き覚えがないわね」
魔道書から顔をあげ、セアラが驚いた顔をした。
「なに? この鐘の音は? どこの鐘?」
聞き慣れた神殿の鐘の音ではない。音がする方向も違う、遠くの鐘の音だった。
「あっちは、王家の霊廟の近くの建国記念公園のあたりね……もう長いこと使われなくなった、『護国の鐘』って古い鐘楼があったわね」
「鳴らないはずの『護国の鐘』が鳴った?」
サキは、慌てて居間の窓に駆け寄り、鎧戸を開け放った。
神殿から東に行った先の、雑木林に囲まれた大きな公園にその鐘楼がある。
星明かりのせいか、東の夜空がぼんやりと輝いているように見える。
「誰かが、古い鐘楼に忍び込んで篝火を燃やしてんのかしら?」
サキは、反射的に絵地図を畳み、傍らの書棚にしまいながら、傍らに置いていた大きな愛刀を手に取り、素早く腰に佩いた。
「どーせ、誰かのイタズラよ!
使われなくなった鐘楼に忍び込んで、面白半分に鐘を衝いたんでしょ? きっと、酒に酔った若い連中の仕業だわ……ちょっと、見てくるわ!」
そう言い置いたサキは、正体を確かめに夜の戸外に駆け出した。
「あーあ。サキ姉ちゃん、飛び出して行っちゃったわ」
「止める暇もないわねぇ……あの子は、思いついたら即行動するから」
サキを見送ったセアラとスーが、顔を見合わせた。
「マオ母様が、この場にいなくて幸いだわぁ」
三人の母親マオは、サキが夜中に街をうろつくことを嫌う。マオがこの場にいたら、また説教が炸裂したところだった。
幸い、マオはすでに自室に引きあげている。
窓の外は、星空を背景にした雑木林が黒々と浮かび上がっている。
セアラとスーは、鐘が鳴った王都の東の方角を眺めた。
「?」
異変を感じたスーが、傍らのセアラの袖を引っ張った。
「セアラ姉様?」
「スーちゃんも?」
「うん……何か、鬼火みたいなものが鐘楼の上空に舞ってるのが、霊視できたわ」
セアラとスーの霊力は、常人では感知できないわずかな異変も察知するほどに鋭い。
神殿の雑木林にさえぎられ、肉眼では見えないはずの離れた場所も霊視できる。
「サキ、大丈夫かしら?」
「たぶん、サキ姉ちゃんは霊視できないから、ただの篝火か何かだって勘違いして気にもしないで突っ込んじゃうわね」
そこまで口にして、スーは慌てて次の言葉を飲み込んだ。
居間の扉が開き、マオが姿を見せた。
「セアラ、何事が起きているの?」
マオも、何かを感知して慌てて起き出してきた様子だった。
寝起きを叩き起こされたのだろうが、マオは夜着ではなく昼間と同じ普段着だった。常にマオは、身だしなみに気を遣っているのか、決して乱れた姿を見せない。
背丈はセアラと同じくらいで、体格はサキに似たしなやかなものだった。年齢を感じさせない若々しい姿だった。母娘なので、似ているのは当然だが、違うのはその青い瞳の色だった。シェフィールド家の血筋の瞳の色は海を思わせる緑がかった青い眼だったが、マオだけは蒼空のような深い青色をしている。
「聞き覚えのない鐘の音が響いたから、ちょっと心配だわぁ」
心配と言っている割には、マオはいつものようなおっとりとした調子だった。
「母様? 今、神殿の東の方に何か鬼火のようなものが霊視されました」
セアラは、突然鳴った昔の鐘楼の方角に、夜空に鬼火が霊視出来たことをマオに告げた。
「鬼火? 鬼火のようなもの?」
「ええ、ほんの一瞬ですが……」
「そう……しばらくは様子を見た方がよさそうね」
端正なマオの顔に、何か考え込むような陰りが見えた。