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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

密書

作者: 小城

 この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。

 _美濃との国境近く、尾張の葉栗郡蓮台は、今の笠松になる。中世、この村は、木曽川の河港として栄えた。その蓮台からほど近い、黒田の宿村も、鎌倉街道、東山道の分岐点として、戦国の動乱の頃になっても、その賑わいを、兆していた。

「この文を駿河まで届けてくれぬか。」

 尾張で、織田信長が、まだ、国内の統一に東奔西走している頃、黒田の宿にある油屋の奥座敷で、油屋の主人と、その手下、そして、月代に二つ髷を結った侍風情の男の三人が、夕暮れ時に、射し照る銅色の太陽光線を浴びながら、談合していた。

「如何様の下へお届けなさればよろしいので……?」

 侍が差し出した封書を一目見た時から、主人の顔の色は変わっていた。

「ああ……。すまぬ。すまぬ。話の頭と尻が逆さまだったなあ……。」

 侍は、その場の空気を和らげようと、余計な一言を添えて、言葉を継いでみたが、侍のその気配りは、何らの効果も、相手の男たちに与えないままに、空気中に霧散していった。

「文は、浅間社門前の社人のたれかに渡してくれれば、それでよい。」

「左様にござりますか……。」

 侍の氏名は、森三左衛門可成と言った。齢三十半ばのこの男の生まれは、黒田と川向かいの蓮台である。かつては、美濃の守護土岐氏に仕えていたが、可成の父の代に、美濃国が、土岐氏から、斎藤道三の手に、簒奪されると、森家は、尾張の守護代家老、織田信秀を頼った。

「三郎殿の為、御身を捧げ、忠節仕る。」

 森家の家督を譲られた可成は、その後も、信秀の死によって、当主となった信長に仕えた。

「攻めの三左の一番槍。」

 尾張国内の統一戦において、活躍した可成は、信長ら織田家家中の者に、そう囃し立てられていた。

「尾張葉栗は要処。三左衛門は、彼の地の馴染み。努々、怠るな。」

 若い当主信長は、多くの言葉を継がない。それが生来の言葉足らずの所為なのか、彼の合理性の所為なのかは、可成には分からない。ただ、家臣たちは、その信長の少ない言葉の中で、要点を抽出し、己で動かなければならない。家臣の中には、それが不満の種になる者もいるようではあるが、元は他所から来た可成にとっては、自分の才覚で、裁量できることもあり、信長の下で働くことは、息の軽いものであった。


「与兵衛。」

「へえ……。」

 油屋の主人、重左衛門は、小者を一人呼んだ。

「お前、明日、駿河へ立て。」

「手前がにございますか……?」

「お前の他に、ここに誰かいるか……?」

「……おりませぬ。」

 重左衛門と与兵衛の関係は良くない。良くないというよりも、重左衛門にとって、与兵衛は、何らメリットのある人間ではなかった。元は、油搾りの職人であった与兵衛は、元来の性根からか、職工の間柄で、上手く馴染むことができなかった。

「本来、お前のようなやつは、村送りにする所だが、店の手前、慈悲を掛けてやるから、有難く思えよ。」

 重左衛門と手下の前で、与兵衛は、深々と平伏していた。油屋重左衛門は、黒田の宿村に店を構えながら、近隣の農家から菜種を買っている。当時、この頃では、めずらしい、新興の作物であった油菜は、稲の裏作として栽培がされていた。従来の荏胡麻に比べて、灯明油として、優れていた菜種油を、重左衛門は扱っている。彼の卸す油は、稀少な品として、貴人に珍重され得る物であり、その大半が、駿府に運ばれていた。

 重左衛門も、元は農家であった。それが新興の油菜に目を付けて、店を構え、知り合いの農家に頼み、油菜の栽培をしてもらうことになり、十年を経ずして、店はやっと、軌道に乗り始め、栽培委託先の農家から、子らを油搾り職人として、雇い入れるようになった。

「葉栗の甚平の倅、与兵衛にございます。」

 葉栗村の農家の六男に生まれた与兵衛は、13を過ぎた頃、重左衛門の所へ、職人として、出された。

「まずは下働きから覚えてもらう。力仕事は、その後だ。」

 油菜の栽培を頼んでいるだけあって、職人奉公に来るその家の子息にも、重左衛門は、懇切丁寧に、接するようにしている。稲作農家も、人手は欲しい。当時の村々は、領主が村を領し、名のある百姓家が、農村と人手を束ね、作物を作り、地代を納める。彼らの土地は、耕作している農民たちの物ではなく、その領主の物である。百姓は、労働力を提供し、そのお目こぼしを得て、生活する。商人である重左衛門も、また、油菜畑のある村々の領主に、税金を収めている。与兵衛は、そのような力関係の中の、末端にいる百姓労働者の、そのまた下層に位置する六男であり、いわば、余り者であった。

 それでも与兵衛は、何とか生きていたし、これからも生きていかなければならない。戦国乱世にあっては、人々は、無論、協働している。しかし、その中でも、また、それぞれが、生存競争を繰り広げていた。それは、武士、百姓の別なく、あるいは、仲間同士で、あるいは敵同士で、戦っていた。ただ、そのような渦中にいる与兵衛だけは、何故か、そのことに気が付かず、絹糸仕掛けのからくりのような屋台の中で、一人、呆然と、世界の本質を理解できぬまま、頭を下げ、媚びへつらい、その日その日を、偶然に生きているだけだった。


 田の稲が刈り取られ、油菜の種蒔きがされ始めた晩秋の夕暮れを、与兵衛は、駿河に向かって、東海道を東へ東へと向かっていた。

「浅間社への奉納。」

 それが道中の旅の名目である。

「店回りは、やはり、やめておくか。」

 主人の重左衛門は、初め、与兵衛に、駿府で店回りをしてもらおうと思っていた。

「お前には、まだ、早い。」

 この頃の城下町には、大抵、その地の大名の保護下にある油座が存在していた。油座は、油商業者の組合であり、搾り取られた油の納入や販売の統制、大名に納める税の徴収、支払いなどを担っている。無論、重左衛門の油屋も尾張の油座に加盟しているし、その座を通して、駿府の油座へ、菜種油の販売と納入を行っていた。その駿府の油座への挨拶と、来期の納入量や価格の確認などをするのが、店回りの仕事である。その他にも、座を通さない、いわば、裏取引の品々のやり取り事を、各商家と行うのも、店回りの仕事ではあるが、それは、与兵衛の力量では、まだ、無理だろうというのが、主人である重左衛門の判断だった。

「承知仕ってございまする。」

 主人は、まだと言ったが、その時がいつか来るとは、与兵衛も思ってはいない。普段、与兵衛は、油屋の雑人仕事をしている。それは、本当に、誰にでもできるといえば、そうである。店の内外の掃除や主人の使い。ときには、重左衛門一家の飯炊きもした。

「(遊山とは、このような物なのだろうか……。)」

 初めて、旅に出た与兵衛は気楽であった。彼が、尾張と三河の境にある鳴海辺りまで来ると、そこはもう、勢力の異なる土地になる。今までは、元は、尾張守護代織田大和守家の家老の一人であった信秀の子、信長を当主とする織田家を奉じる勢力の中にいたが、今は、駿河、遠江二ヶ国の守護を兼ねる今川家を奉じる勢力の中に入る。

「(いずこか、ひと休みは……。)」

 辺りを見回した与兵衛は、街道から、少し外れた所にある社の大樹の木陰に腰を下ろすことにした。日没までに、あと半刻程だろうか。それまでには、楽に、次の旅籠がある所まで行けるだろうと、与兵衛は思っていた。

 勢力と先ほど、筆者は述べた。与兵衛が一刻程前に歩いていた所と、今、腰掛けている社の傍らの地面のある所は、周りの風景も、山の景色も、風の匂いも、地面の色も、何ら変わることはない。しかし、勢力や権力。力関係などと言った空想的とも、形而上的とも言える、目には見えないが、そこにある関係性が、今、与兵衛が生きる戦国の世にあっては重要な要件であった。それがあるからこそ、人々は、食べ物を手にして、その中で暮らすことができる。そして、人々は、その為に死ぬ。それを手に入れる為に、集団を組み、協働し、他者を攻撃し、生存競争を繰り広げる。弱肉強食とも言える、その争いの中では、与兵衛のような個の存在は、弱く、孤独であり、搾取される。それは、油を穫られる小さな菜種のように、誰の目にも映らない、路傍の石ころのような存在なのかもしれなかった。

「さてと……。」

 竹筒の中の水を一口飲み、脚を休めた与兵衛は、はるか遠く、ここからでは見えない駿府の城下町を目指して、再び、一歩、また、一歩と、片足を前に出していくという、地道な作業に従事し始めた。

「(遠く、遠く……。一歩、一歩……。)」

 誰にでもできる。しかし、それは自分にしかできないことと思いながら、与兵衛は、心の中で、呪文のように、言葉を唱え、旅籠を目指した。


 さて、与兵衛が東へ向かっていた、その頃。尾張黒田にある重左衛門の油屋では、森三左衛門可成が、あの夕日が差し込む奥座敷で、茶をすすっていた。

「その与兵衛と言う者は、それほど愚鈍な男なのか……?」

 茶の相手は、重左衛門である。可成は、茶菓子の干し柿を一かじりすると、ぺっと、種を茶碗の中に吐き出した。

「あれほど、気の利かぬ男もめずらしい物にございまするなあ……。」

 森家と重左衛門の油屋は、可成の父親が、土岐氏に仕えていた頃からの馴染みである。まだ、重左衛門が菜種油を商い始めて、間もなくの頃、森家が治める領地の村にも、油菜栽培の相談に、重左衛門がやって来た。森家と重左衛門の関係は、それ以来である。

「然れど、本当に、あの者を遣いに立てまして、よろしゅうございましたので……?」

「お主にとって、毒にも薬にもならぬ。用の要らぬ雑人であれば、良い。それに、愚かなる者と言うことならば、最上であろう。」

 可成の前にあった干し柿は、既にいつの間にか、喰われてしまい。跡には、ただ、固い種とへただけが茶碗の中に転がっていた。

「さあてと……。」

 可成は、その茶碗をつかみ挙げると、もう片手で、座敷の戸を開け、茶碗の中の種とへたとを、庭の植木の吹き溜まりへと、雑作もなく、捨てた。


「そこな男。止まれ。」

 小夜の中山を越えて、大井の川岸に迫ったとき、与兵衛は、関所の番兵に呼び止められた。川岸には、渡し守の漕ぐ船と、それを待つ旅人たちの姿が、散見された。その中を、今川家の番兵たちが、人々をかき分けながら、胡乱な風体の者を探し立てている。その中の一人の目に、与兵衛の姿が映った。

「何者で、何処へ向かうのか。」

「へえ……。」

「へえ……とは、何だ?」

 真に上意があり、道中を歩いて来た者ならば、佇立して、旅の子細を述べれば、番兵は、何もせずに消えて行く。また、怪しい者でも、旅慣れた者ならば、急な詮索にも動ぜず、多少の銭を番兵に渡せば、何もせず消えて行く。番兵も番兵で、本当に、関所の任を全うしている者はおらず、旅人が寄越す、鐚銭目当てに、河原を闊歩している者が、ほとんどである。本当に怪しい者などは、道中、幾らでもある、次の関所で、他の誰かが、何とかしてくれるだろうと思っている。

「あしは、美濃の油屋の使いでございまする。浅間様への奉納の文をお預かりしてございまする。」

「ならば、その文とやらを見せてみよ。」

 元々、鐚銭目当てで近づいた番兵ではあったが、相手の問答の手前、職務を全うせざるを得なかった。

「うむ……。」

 江戸時代と違い、この頃の識字率は低い。与兵衛も文字は読めないし、番兵も同じである。それでも、この大井の川岸で、何人もの旅人を見てきた番兵は、己の中で、真に怪しい者と、そうでない者の基準ができていた。それは、近代的には、全く、偏見と差別と恣意に裏付けられた卓見ではあったが、中世の、この当時においては、未だ、その真偽と反証の方法論に看破されることなく、真実のこととして、世界に、確固、存在し続けていた。

「ついて来い。」

 手鑓を持った番兵は、与兵衛の両手を後ろにして、縄で縛り上げると、その片方の先端を引いて、川石の上を、音を立てて歩いて行った。


 番屋で、文字の読める者の詮索を受けた与兵衛は、後ろ手を縄で縛られたまま、馬の飼い葉が置いてある納屋の中に閉じ込められた。

「(何でこんな目に合わなければならないのか……!?)」

 番兵達の詮索の間も、始終、与兵衛は黙っていた。それは、余計な言葉を述べて、相手の怒りを買わないようにする与兵衛の知恵ではあったが、与兵衛がいつも叱られている薄暗い油屋の土間でのことと違い、夏の太陽光線の下でできた日焼けの痕が残る、凶器を持った汗臭い男たちの前では、何らの効果もなかった。

「(おれはこれからどうなるのだ……。)」

 それから、約ひと月の間を、与兵衛は、馬の飼い葉と共に過ごした。その間、与兵衛は、今まで、彼が、数える程しか、して来なかった自己主張という物を、大声でしたこともあったが、その自己主張も、声を聞き付けてやって来た牢屋番の男に嬲られた後、汚い褌か何かの切れ端で、猿轡をさせられるに及んで、終わった。それからの後、与兵衛は、水も飯も、飲み、食べることなく、鼻先から、吸入される臭い匂いと、飼い葉の匂いにつつまれながら、衰弱死を遂げるまで、この、川岸の納屋の中で過ごした。

 不思議なことに、与兵衛が死の数日から数時間前に見た、せん妄状態下の幻覚は、彼が子どもだった頃に、出会った山犬の思い出であった。与兵衛の住む家の近くの雑木林で、痩せ衰えて、倒れていた山犬の子は、与兵衛が、茶碗に川の水を汲んで来ると、それをぺろぺろと舐めた。また、あるときは、与兵衛が、竃の湯の中で煮た鶏の卵を、食べた。山犬の子は、動けず、最早、死期が迫っているであろうことは、幼い与兵衛の目にも明らかであった。それでも、与兵衛は、その山犬の子と、数日間の時を過ごした。その中で、一度だけ、与兵衛の右手の鶏に啄まれた傷口を、山犬の子が、哀れんで、ぺろぺろと舐めたことがあった。

「ありがとな……。」

 そのようなかけがえのない瞬間を、与兵衛は感じた。その翌日に、山犬は、死んだ。その思い出を何故、今、死の間際の与兵衛が思い出していたのであろうかは、筆者には、分からない。この瞬間まで、与兵衛も、また、そのような、弱肉強食、親が子を喰らうような戦国の乱世の中にあっては、たわいのない、戯れ言のような事を、記憶の片隅からも、忘れて、消してしまっていた。結局、衰弱死した与兵衛の骸は、大井の川岸から、程近くにある山林の中に、捨てられた。そして、その骸も、また、山犬や狼と言った、山林に住む獣の手によって、この地球全体の一部に戻って行った。


 与兵衛の死から数日後、大井の川を渡し船に乗って、駿河に向かう一組の侍の姿があった。尾張、鳴海の城に住む山口左馬助教継と教吉親子の二人は、この後、訪れた駿府の今川屋敷に於いて、今川家当主、義元からの切腹の命を、今川家中の侍から伝えられることになる。

 二人の切腹の後、信秀から信長の代替わりに際して、織田家を見限り、今川家に鞍替えした山口親子に、代わり、鳴海の城には、今川家の城代が詰めることになった。

 もとより、山口親子の切腹は、信長の命により作られた、二人の謀叛を示す偽の手紙が発端であったと言うことである。彼の者の筆跡を真似て書かせた手紙を、信長は、家来の森三左衛門可成に命じて、可成を商人に変装させて、駿府の城下に持ち込んだという。それが、実際に行われたことかどうかは、分からない。ただ、この話の中で、もし、可成から頼まれて、油屋重左衛門が与兵衛に持たせた文の中に、そのような山口親子の謀叛を疑わせるような手紙があったのだとしたら、それを運んだ与兵衛は、孫子の兵法で言う死間、ということだろう。元来、そのことを当の本人が知っていたはずもなかった。彼は、己の死の理由も、世界の理も、何もかも分からぬ内に、生きて、死んで行った。

 そんな与兵衛のような男が、本当にいたのかどうかも、彼が、何の役に立ったのかも、歴史の研究をする上で、開いた古文書を紐解いたとしても、分かるかどうかということを、筆者は記す術もないのである。

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