◎3
「なんで?」
葉月にはコトルの言葉がどうしても理解できなかった。大好きな日曜日の朝のアニメに、主人公が不思議な世界へと冒険する。葉月は子供ながらに、そういうのは空想上のお話だと知っていた。でも――。まさか葉月自身がそうなるとは思わなかった。
「ハヅキは、日本人ってところの人間だったよね。難しいかもしれないけど……夕方の時間になると、世界が曖昧になるんだ。それでまれにハヅキみたいに堺をめくることができる子供がいるんだよ」
「……わかんないよ? もう、帰らないとお母さん心配しちゃうの……」
葉月はふるふると頭をふって否定する。こうして話していると……話す以前に、葉月は遠くからきているのだと思い知らされている。今だって、葉月のいる世界には半人半蜘蛛なんていう生物はいない。魔物なんていない。
「……ハヅキ」
黙り込んだ葉月を心配して、コトルが口をひらく。
「服、着ようか。 寒くなってきただろ?」
「うん」
葉月は頷くと、コトルが抱えて地面におろしてくれる。泣きそうになるのをこらえながらすぐにコトルの背後にまわる。
「ハヅキ?」
コトルは上半身を後ろに回し、葉月はすぐに見つかった。コトルの腹に、顔を押し付け嗚咽をこらえている。
「人間は体弱いから風邪ひくんだろ」
「こ、どもは風の子だもん!」
ひっく、ひっく、と流れてくる涙と鼻水をふきながらふさふさの毛でふく。腹で
鼻水と涙をぬぐわれるコトルはなんともいえないような顔で、小さく息を吐きだし、なるべく葉月を泣かせないように考えあぐねる。
「ハヅキ……」
静寂が周囲を包み、何も言えない時間だけが流れていく。いつのまにか葉月は家のことよりもコトルのことを考えていた。泣けばコトルが心配するのに、泣いてしまうことに、泣きたくなることを。顔を上げて見なくてもわかる。コトルが葉月の背中をなでてくれること。その顔がとても心配してくれていることを。沼面の上を滑るどろり、とした風が葉月の全身を撫でて通り過ぎていく。気まずさを払うようにコトルが口を開こうとした、そのとき。
ぱしゃり、と沼の水がはねた。近くにいた、葉月とコトルに水しぶきがかかる。
「え?」
「うん?」
不意に、二人は驚き場の空気が変わる。顔を上げると沼に大きな波紋ができていた。さきほど、葉月が落ちた沼だ。鯉? 気になった葉月はコトルの脚に顔を埋めるのをやめ、てくてくと沼へ近づく。水面には水草が転々と覆いかぶさり、暗い雰囲気を醸し出してはいるがどこか神秘的だった。緑に濁る水面をみると、水の色が濃く、わからない。
「ハヅキ、近づきすぎちゃ溺れちゃうよ」
注意するようにコトルはいった。葉月はなにかを思い出した。ぬめぬめしたなにか。コトルはどうやって助けてくれたんだろう? そう考えてコトルに振り向き、沼に背を向けた直後。
ぽちゃん、と強く水面から跳ねた音がした。慌てて振り向くと水面が揺れ、波紋が新しくなっている。
「ハーヅーキー」
葉月は波紋から丸くふくれたものが浮いてくるものに集中していた。落ちても沼の主が拾ってくれるものの、人間はすぐに死ぬという不安からコトルは静かに八本脚をシャカシャカと葉月に近づく。気づかない葉月は泡を観察すると、波は薄まっていき、ぶくぶく、と泡は大きくなり
「ぷはっ!!」
「きゃ!?」
葉月は悲鳴を上げる余裕もなかった。音をたて、それが水面から顔をだし上がってきたのだ。波が大きく地面へとおしよせ、しぶきが葉月の顔にかかろうとして、コトルが糸で阻止する。葉月の視界が一瞬真っ白く染まったが、その一瞬前に見えたものの印象が強く気づいていない。
「ああ!」
葉月の知っているものがでてきて、顔がほころんでくる。上半身は人間。下半身には魚の尾ひれ。水面から這い上がってきたのは、人魚の少年だった。
「えへへ、やっぱり人間だ!」
葉月と同年代の少年は、葉月の顔をみて、贔屓目でなくともわかるほどに顔を輝かせ破顔していた。少年は葉月に顔を合わせたままコトルに視線をやる。同時に、少年は地面に手のひらをついた。
「ねえねえ! コトル」
「なに?」
「よ! ……っと、えとね」
少年は腕に力をいれ、地面に尾ひれの下半身をのせた。葉月は目を輝かせたまま、少年の尾ひれに触れたい衝動にかられていたとたん、その言葉に葉月は青くなる。
「この人間はいつ喰うの?」