◎1
黄昏の中。少女は坂道を歩いていた。彼女の目の前には大きな夕焼けがあり、坂道を上がり切れば夕焼けに触れるかもしれない、と幼い彼女は楽しみにしていた。
「……っ」
それなのに彼女の期待とは裏腹にどうしてか、近づくたび、遠くなり。手を伸ばすたびに、彼女の指先は宙をきった。彼女は空の手と夕焼けと交互に見ては、唇の形に不満をあらわしていた。
「……っあ」
彼女は気づいた。夕焼けが遠くなることに。ゆったりと、しかし素早く遠のいていき、彼女の行く手を阻むかのように、彼女から隠すように幾層もの闇色の幕がかかっていく。
――さわれなくなっちゃう!
彼女は慌てて走る。闇色の幕をめくっては、進み、めくっては進み。彼女はどうして自分がこんなにも夕焼けに心が惹かれているのかわからない。空を掴んでは、前へ、前へ。彼女は黄昏を目指し、彼女は手を伸ばし――
「あ!」
触れた。彼女の顔が歓喜に染まる。じんわりと嬉しさで彼女は心が満たされていく。夕焼けはやわらかく、あたたかい。夕焼けに触れた! 彼女は自分がどれだけ走ったのか背後を確認し振り返る。これだけ走ったのだ。坂道を上りきったは――
「?」
しかしすぐに首をかしげた。自分はいつのまにこんな場所まできていたんだろう、と。夕焼けに夢中だった彼女は周りなんて一切見ていなかったから。知らない場所だった。
家、家、家、どこまでも続いていた建物がいつのまにか木、木、木……と木の連続。彼女は自分が森にいるのだと幼いながらにわかった。
ざぁっ、と風が吹き木から葉が落ちる。彼女の周りを新緑が舞う。驚き瞼を下ろし、掴んでいる夕焼けをなくさないよう力をこめ
「っ!?」
手のひら中心になにかがやわらかく刺さった。慌てた彼女は勢いよく後ろに引き、なぜかその反動で前へ、夕焼けへと倒れた。柔らかい毛布を抱きしめているようだった。手のひらにはねばねばしたものがくっついている。彼女はねばねばを手から離そうと引っ張るも離れない。もう片方の手の親指と人差し指でねばねばを摘み、引き裂こうとした直後。
「え?」
親指と人差し指がねばねばから離れなくなった。
「え? え? え? な、んで……!」
彼女の両手が塞がってようやく、彼女はこのねばねばに触れたらくっついて離れないとわかった。
「ま、まま! まま! くっついて、はなれないっ、よ」
いないのに母をよぶ。また風が吹き、新緑が彼女を覆う。冷たく、顔に当たる。木から葉が離れ、顔をかすっていく。痛くて、顔を守ろうとして、両手が使えない。
彼女の声だけが響く。涙が流れそうで、拭おうとしても、両手が使えない。仕方なく、彼女は夕焼けに顔をこすり涙を拭った。夕焼けがしっとりと濡れる。嗚咽が漏れ、大声を上げそうになったとき。
「……あの、頬ずりすんのやめてください」
困ったような声がした。彼女は顔を上げ、声の主を眺める。視線が上から下。下から上。と上下し、彼女はこの夕焼けは夕焼けではないとわかり、困った男の人が裸だとわかった。彼女は大きく息を吸い、叫んだ。
「へんしつしゃああああああああ!」
木から葉が大量に落ち、バサバサ、と羽音がきこえている。
『変な人がいたら大声をだして逃げましょうね』
学校の先生がいっていた。春になったら変な人が多くなる、と。ニュースでも変な人が刃物を持って誘拐するって。気づけば彼女は駆け出していた。足が軽く、振り上げる腕が熱くなる。前に進むたびに、スカートがまとわりつき邪魔だった。後ろでなにか言っているが、風の音にかき消されてわからない。気になったが、振り向けば遅くなるために、彼女は無視した。
そのときだった。足が浮き、全身がとんだ。沼の臭い。冷たく、暗かった。服が濡れ、体を何かがおおっていく。髪の隙間から根元までも。暗闇に覆われ、暗闇に沈んでいく感覚。
(なんで、こうなったんだろ)
考えても遅かった。彼女の手足の感覚がなくなってきた。拳に汗がにじむ。息が苦しく、空気を思い切り吸い込むことができない。汚れた水が鼻に口に耳に身体中の穴にはいっていく。苦し……
これが、彼女と彼の出会いだった。
………………。
…………。
……。