第一話「思春期と悩みの種」
どこにでも平等に夜明けはやってくるもので、無論ここ荊州にも鶏が朝を告げる。まだ日が昇りきらない薄暗い中を歩きながら、孟均は背筋を伸ばした。朝一番からの鍛錬は彼の毎日の日課である。完全に覚醒し切れない頭に吹き付ける、風の肌寒さが心地良い。
「あら。こんな朝早くから、ご精が出ますね」
不意にかけられた柔らかな声に、一気に思考が冴え渡る。朝餉のために井戸に水を汲みに来たらしい夏侯玉華が、小首を傾げて会釈をした。気付かずにいた自分を責めながらも、内心の動揺を隠して挨拶を返す。
「ええ、一日でも欠かすと、腕が鈍ってしまいそうで」
「ここ数年、戦とは無縁ですものね。夫も毎日ゴロゴロしてばかりで」
一足先に夜明けが来たような、眩しい笑みを向けられ、孟均はどぎまぎと視線をさ迷わせる。彼女の夫や孟均の養父と比べれば、彼の修行も微笑ましい情景でしかないのだろう。加えて、折角の鍛錬も活かす機会のない自堕落な日常。束の間とは思えぬ程、荊州は平和であった。
建安五年、官渡の戦いの中で合流した劉備三兄弟は、翌年曹操からの攻めを逃れるように荊州入りした。劉表に快く迎え入れられた彼等は、用意された屋敷に今も世話になっている。
孟均は劉備陣営の合流場所である屋敷の主の次男で、彼に惚れ込んだ劉備が関羽の養子として貰い受け、同行することになった…というのは表向きである。
実は彼は、劉備たちが義兄弟の契りを交わすにあたって後顧の憂いを断った際に、張飛の恩情により難を逃れた関羽の実の息子であった。関定の次男として育てられた彼だが、ある日告げられた真実に、まだ見ぬ実父に思いを馳せた。
関羽を恨んでいるわけではない。それに、今までの生活に不満があるわけでも。侠客との繋がりが深い関家で育ち、また劉備たちの活躍を聞き及んでいる環境から、彼等の信念や事情は理解できる。
けれど、だからこそ会いたかった。
そこまでして命をかける父が見ているものを知りたかった。自分も同じ位置に立って。殺されかけても引き離されても、関羽という人間に強烈に惹かれてしまったのだから。歯牙にもかけられない赤子と見られぬよう、認められるよう修行を積んだ。そして別宅に彼等が向かっているという情報に、勇んで関定に同行を申し出たのだ。
こうして関羽の養子となった孟均だったが、思った以上の強固な壁を感じていた。何しろ、本来なら母と共に死んでいたはずである。それが覆され、いきなり現れて貴方の息子ですと言われても、そう簡単に受け入れられないだろう。ましてや、関羽の信念のために死ぬべきだった存在の自分では。
明るみに出れば関羽や張飛はおろか、養子にと申し出てくれた劉備をも裏切ることである。だから絶対に公にはしない…「実の息子」とは思わない…関羽はそう言い放った。それが未だに彼等の中でギスギスした空気を生んでいる。
孟均にとって救いだったのは、関羽の現在の妻である任紅昌の存在だった。曹操の元で娶ったという彼女は口が聞けないらしかったが、ただ傍に佇み、言葉以上に語りかけ包み込んでくれる優しさに、孟均は癒されていた。
生みの親である胡金定を物心付く前に亡くし、また関定の妻にも遠慮していた孟均にとって、母親の暖かさはこういうものかと、この歳になって初めて実感していた。自分とは僅か八歳しか離れていない紅昌だが、彼女がいるからこそ関羽との間が取り持たれていたと言っていい。
しかし、最近の孟均は困っていた。
そう、彼は困っていたのである。原因は今、代わりに井戸の水を汲んでやっているのを感謝の意を滲ませ微笑む女性――玉華である。(尤も、彼女自身は露とも自覚していないが)
邂逅は四年前、養父たちと合流した関定の別宅であった。関羽の義弟である張飛の妻(※当時はまだ婚前)として連れて来られた玉華は、僅か十四の少女であり、自分よりも二つも年下ということに驚いたものだ。が、その如何にも世間知らずの令嬢といった外見に似合わず、時折影を帯びるのが気になっていた。しかし普段は感情を表に出さず、それが何を考えているのか得体の知れない雰囲気を醸し出していた。
そして劉備が合流し、張飛と祝言を挙げたのはほどなくしてから。その後、蛹が蝶になるようにたおやかな美しさを纏い成長した玉華は、塞ぎ込みがちだったのも年々明るさを取り戻していき、今では夫である張飛が自慢したくなるのも納得の、立派な奥方ぶりである。
ただ、孟均は彼女の笑顔の裏側にある、隠し切れない影を今でも感じる時があった。過去に何があったのか詳しい事情は聞けないが、恐らく気付いているのは自分だけだろうと…
そこまで考えて、異様にそのことばかり気にしている自分に驚く。彼女は言わば、彼の義理の叔母に当たる。いくら歳が近いとは言え、それを忘れてはいけない。年頃の娘に対する男の目で、彼女をずっと見つめてきたなどと。なのでこれまで何度も「意識するな」と自分に言い聞かせてきた。
この平和な荊州においても日々激しい修行に身を置いていたのは、関羽に認められたいというのも理由だが、この胸の内にある秘めた想いを吹っ切らせるためでもあるのだ。そして玉華が母親となることで、諦めもついたと思っていた。
だから、忘れていた。
「そうそう、任夫人のお体の具合はいかが?」
桶を孟均に持ってもらい、張飛の屋敷まで戻りながら玉華が尋ねる。
「若年の私が言うのも何だけど、先に母になった身として、手助けしたいのですけれど」
その申し出に、孟均は苦い表情で先日の宴を思い返す。
玉華が男児を産んでから二年経つ今年、関家にも新たな命が誕生した。
孟均にとっては腹違いの弟となる関家次子――「興」。
弟が出来たのは、とても嬉しい。関定の元にいた頃は自分の下には兄弟はなかったので、兄としてうんと可愛がってやりたい。しかしそれは同時に、孟均を暗澹とさせることでもあった。
次男誕生の宴の席のこと。自身の息子の時も凄かったが、今回も負けず劣らず祝い酒を呷っている張飛。そんな彼に無理やり杯を押し付けられ、孟均は酔っ払いの戯言を聞かされていた。
「しかし…何だな。兄貴にガキができたのは喜ばしいけどよ。お前は大変なんじゃないか? 正式な長男が出来たとか言われて」
酔いのせいか、いつもより無神経な張飛の発言にヒヤリとなる。
察した玉華が張飛を宥めるのにホッとしつつ、言葉を返す。
「それならそれで、私には兄として弟を導く役割があります。義父上の跡を継ぐことに拘っているわけではありませんから」
嘘ではなかった。本来、母の腹から出る前に死ぬ運命だったことを思えば、今こうして生き、関羽に付き従うことが許されただけでも幸福なのだ。だからそれ以上の欲は持とうとは思えない。
それに自分は父を守って死ぬのだ。跡継ぎにはならない。助けた手前、張飛が気遣ってくれるのは有り難いが、劉備の前で迂闊に正体を明かされるなんてことは勘弁して欲しい。
見れば、養父も渋い顔で張飛を睨んでいる。
「けどよ、今まで父ちゃん母ちゃん一人締めだったのが取られちまうのって、寂しくねえか?」
「将軍…私はもう二十ですよ。子供ではありません」
ガシガシと頭を撫でられ、呆れた声で溜め息を吐く。酒を勧めておきながらこの扱い。奥方の玉華と歳もそう変わらないはずだが。
「ふむ、そうか。もう、そんなになるのだな…」
一連のやり取りを聞いていた劉備が、何かを考える仕種をする。
嫌な予感が過ぎったその時、
「では、孟均もそろそろ祝言を挙げてはどうかな?」
一瞬、何を言われたのか分からず、しんとなった場に戸惑う。
(祝…言……? 誰が? え、俺? ちょっと待て、殿は本気なのか? 何がどうしてそう…)
混乱した思考を破ったのは、張飛の笑い声だった。
「ぶっはははははははは!!! こ、このガキが祝言だと? 弟が生まれたばっかのこの時に? 冗談…」
「益徳!! 儂は酒の席と茶化しているわけではないぞ! 孟均ももう年頃だ。お主とて玉華殿を十四で娶っただろう」
そう言われてしまっては、張飛も口を噤むしかない。
一方で孟均は内心大いに焦っていた。
「殿…お気持ちは大変有り難いのですが、私めはまだ義父上のお役に立てるだけの腕とも自負できませぬ。そんな未熟者が嫁など持っても修行の妨げになるだけで一利なしです」
娶るのを拒むのにこれだけ必死になるのはさすがに不審に思われるだろうが、伴侶という人生を共にする者の話題だけに、そう簡単には受け入れられない。
だが劉備はそんな孟均を責めるでもなく、穏やかに諭す。
「そなたの義父を思う心は立派だが、だからこそ安心させてやるのも良いのではないか? 修行の妨げとは言うが、義弟たちを見れば分かる通り、護る者が出来てこそ腰も据えよう。何も今すぐ娶れと言っているわけではないしな……だから、許嫁ということでどうだろうか?」
最後の問いかけは孟均と言うより、関羽に対して向けられていた。反射的に、縋るような目で養父を仰ぎ見てしまう。
関羽は相変わらず表情を崩さなかった。
孟均は分かっている。養父が決して甘えを許さないことを。そして、劉備に逆らおうはずがないことを。
「そうだな……お主ももう、子供ではないのだ」
杯を置き、静かにそう呟く声が、孟均の足場を崩していく。
「義父…」
「それとも、お主の修行はその程度で妨げになるほど無駄なものだったのか?」
突き放すような、それでいて探るような声色に、膝をぎゅっと握り締める。一瞬でもこの男に甘えを見せてしまった自分を恥じ、動揺を全力で抑え込んだ。
「…………いいえ」
皆に気付かれぬよう、そっと玉華の方を覗うと、目が合った。その微笑みは心から祝福の意が滲み出ていて、孟均は目を逸らした。彼女を見ていると、どういうわけか泣いてしまいたくなりそうだったから。
そんなことがあった先日。あれから関羽の元には見合い関連の書簡が連日届けられており、(劉備の善意と、これ幸いと飛びついた貴族たちによるものだろう)養父も積極的に目を通している。無関心を貫くとばかり思っていただけに、驚きと共に嬉しさを覚えなかったわけではないが、素直に喜べない複雑な心境で、ここ最近の彼は憂鬱だった。
「ここで良いですか?」
「ええ、ありがとう」
張飛の家の裏まで来て桶を置くと、玉華に礼を言われた。その時、当たり障りなく別れようと踵を返す孟均の後ろから、悪気ない一言が降りかかった。
「でも孟均殿のお嫁さんになられる方、きっと素敵なのでしょうね」
玉華の言葉は、孟均の心に痛みとなって響く。
そう、もう忘れたと思っていた玉華への淡い想いが今だ心を燻り続けていることに気付かされてしまった彼は、己の往生際の悪さにつくづく溜め息が出るのだった。