独白と方針
筆者が「ヤンデレ」という言葉を知ったのは、とあるドラマCDを編集した動画を視聴したことがきっかけだった。動画の内容はほとんど忘れてしまったが、その時に初めて「ヤンデレ」との出会いを果たし、その魅力に一気に引き込まれていったことは現在も覚えている。
あの衝撃からもう10年ほどであろうか。今でも「ヤンデレ」という単語に敏感に反応するが、同時に物足りなさを感じているのも事実だ。すなわち「ヤンデレ」とはなにか、という哲学的思考に突き当たったのである。
「ヤンデレ」という概念には実は曖昧な部分が多い。そもそも「ヤンデレ」に対してこれまで学術的かつ専門的な研究がほとんど行われてこなかったこと、そして「ヤンデレ」そのものが「萌え」という包摂的存在の中にあって好みが分かれるニッチな領域であることが理由としてあげられる。
今でこそ「ヤンデレ」という単語は市民権を得たとまではいえないものの、ネットユーザー間では「萌え」カテゴリーの一分野として認知されるようにはなった。しかし、個々人において「ヤンデレ」に関する考察がなされたり、ネット掲示板で議論が行われているのは幾度か目にしたことがあるが、それ以上のレベルで発展することはなかった。故に「ヤンデレ」というイメージは千差万別であり、「ヤンデレ」のステレオタイプが一部誤解を含んで流布されたり、これまでにない「ヤンデレ」像が新たに生みだされる要因となっている。
例えば「ヤンデレ」をメインテーマにしたイメージキャラクターが描かれた場合、高確率で「光沢を失った目」、「血の付着した凶器や衣服」といった要素がキャラクターに付与されるが、これらの要素は「ヤンデレ」にとって必要不可欠なものではない。この描き方は「キャラクターが何らかの理由で精神的に不安定となってしまい、遂には凶行に走ってしまった」ことを視聴者に想起させるために編み出された、いわゆる「ヤンデレ」のステレオタイプを利用した手法にすぎない。「ヤンデレ」のステレオタイプの形成過程については次回以降説明させていただくが、こうした手法が多用されることによって、多くの媒体において「ヤンデレ」のキャラクターがよりサディスティックかつバイオレンスに描写されるようになってしまった。
このような事実を目の当たりにしたことで、筆者は冒頭の哲学的思考に至ったのであった。そして、筆者の考える「ヤンデレ」の哲学的思索をより広めるためにはどうすればよいか考えた時、原点ともいえるドラマCDのように娯楽小説として世に送り出すことが重要であるという結論に達した。
話が長くなってしまったが、この『ヤンデレに関する一考察とヤンデレ小説』シリーズでは私見を交えながら「ヤンデレ」に関する考察を行い、付随する関連作品として拙い文章ではあるが「ヤンデレ」を主題にした娯楽小説を描いていくことを目的としたものである。
ただし、長編作品ではなくそれぞれが独立した世界を持つ短編作品、またはそれらをまとめたオムニバス形式にする予定となっているので、長編作品を期待している方々には少々物足りないものとなってしまうだろう。
また、小説内で残酷な表現、描写が登場するか否かについてはこの独白を記している現在においては未定であるが、一辺倒な展開を避けることは重視しているとお伝えしたい。
兎にも角にも読者に楽しんでいただければ筆者としては幸いである。
次回は第1回目の考察として、「ヤンデレ」という単語が誕生する遥か昔の創作上の人物を中心に考察を進めていく予定である。実は「ヤンデレ」という概念の誕生と直接の関連性はないのだが、今後の理解を深めるために一読する価値はあると個人的には考えている。