ハンド・トゥ・マウス
実家、親元にいたころには、夏など四六時中、冷房の効いた部屋で過ごしていた。
懐かしむでもなく思い出す間に、また原稿が汗で湿る。
「志穂、タオルとって」
「はーい」
アマチュアのくせにこんなにかわいい、彼女兼助手がいる漫画描きは世にもまれだろう。
◆
漫画を描き始めたのは中学生の頃だった。
知り合いなのか友達なのか解らないような友達しかいなかった僕は、有り余る休日や放課後の時間をノートの余白やプリントの裏に流し込んでいった。
理由もなく、だけど親にはそれを悟られたくなかったから、僕はその時間、勉強したことになっていたし、今でも親はそう信じているはずだ。
体面のために滞りなくこなしていた宿題と悪くない成績をとるための一夜漬け、それだけがなぜか、親も納得するような進路に僕を導くことになる。担任に乗せられて受けたそこそこの大学に、僕はなぜか合格した。
「そこにちょっと立ってみて……腰に手、当てて。そう、ありがと」
高校生活のなかで出会った、同じように漫画を書いている人間にどうしても馴染めなかった僕は、大学に進むと文芸サークルに入った。国語の成績は悪くなかったし、漫画に役立つのではないかという打算もあった。
しかしさして興味があるわけでもない分野。人付き合いの上手くない僕にはさらに馴染めるはずもなく、世間に対して斜に構え、(自称)ブンガクと向き合っている先輩たちの中で僕は居心地の悪さ以外に何も感じなかった。漫画を書いている人間と同種のにおいがした。もしかしたら、同族嫌悪なのかもしれなかった。
そんな場で、僕は志穂と出会った。同い年の志穂もまた、僕と同じく居心地が悪そうにしていた。
「先輩に読んでもらおうと思ってたけど、そういう雰囲気じゃなかったから」
ブンガクにはじき出されたふたりは、僕の性質を考えれば驚くほど早く意気投合した。志穂が僕に差し出したワープロ原稿、恋愛ものの短編に、僕はひどく心を打たれた。先輩たちのいうブンガクではなかったが、若い女性によくある頭悪げな文体でもなかった。原稿用紙でいうと十枚足らずしかなかったが、長く書く力が無いからではない。彼女の世界には、それ以上の言葉も展開も必要なかった。
短く完結していて、それでいて余韻のあるひとつの世界。
こんな漫画が描きたいと思った。
それがきっかけで、なんだかんだで今に至る。
サークルは、二週間が経った頃にふたり揃ってやめた。
◆
しばらくポーズをとってもらった後、志穂は昼食を作り始めた。志穂がいなければそのうち身体を壊していたかもしれない、と思う。志穂は絵を描かないし、不器用だからと手伝うこともほとんどない。ただ最近はよく、志穂のストーリーラインで漫画を描く。
難しい勘定ができず、ひたすら賞に応募してはたまに参加賞のひとつ上をもらったりしていただけの僕に同人誌を作ってみろと言い、いろいろ調べて世話してくれたのも志穂だ。作った同人誌は思っていたより売れて、仕送り一本でバイトもしない僕の、画材を買う金ほどにはなった。
学校があると昼や帰りに連れ回すくせに休日になると僕の部屋に入り浸りで、夏休みに入ってからはずっとこの調子のアシスタントまがい。どちらかというとお手伝いさんに近いかもしれない。
ふたりで出かけることも滅多にしないが、日用品や画材を買いに出るときは必ずついてくる。いつから付き合っているのかも解らないし、そもそも本当に付き合っているのかも不明だ。でも時々、思い出したようにキスをする。好きだと言い合う。
そんな感じでよくわからない僕らだが、僕にとってはもう、志穂のいない生活は考えられない。
「覚えてる? 今日で二年だよ」
食事を済ませ、少しゆったりしている時分に、志穂がふと口を開いた。
さしてそういうものにこだわる性格でもないだろうに、志穂は記念日やら何やらだけはよく覚えている。もはやその日のうちに忘れてしまうようなことまで記念日に仕立て上げてしまう。
こうして尋ねてくるのも覚えていない僕をなじるためではなく、ただクイズのように楽しんでいるだけのようだ。
「今日は何なの?」
ひと通り主要なものに該当しないことを確認して聞き返す。
「サラダ記念日」
「え、あれって今日なの? ……え、二年って?」
ちがうちがう、と志穂は首を振る。ちなみにあれは七月六日らしい。
「ふたりで作ったサラダがおいしかったんだって。日記に書いてあった」
なんだよそれ、と僕が笑う、そんな日常。
小説も書いていたがバレー部でもレギュラーだったという志穂には活動的な一面もあり、しかしそんな日記をつけるような繊細な一面も持ち合わせる。本人いわく「根は文学少女だから」らしいが、明るい性格を考え合わせればもっと遊んでいても不思議はない。
世間並みよりは父親が厳しいというのもあるらしい。わたしお父さん似だから、と志穂はいつか、笑いながら言っていた。
「手、かして。もんであげる」
僕のおかげか、あるいは僕のせいと言うべきか、志穂は最近めっきりマッサージが上手くなった。
特に手には意外なほど疲れがたまるし、ペンだこが面白いらしく志穂もよく触りたがる。
◆
こんな明るい日々の中でも、時々少し不安に駆られることがある。
大学は留年スレスレ、なんとか三年の今まで持ちこたえてきたけど、未だに将来のヴィジョンといっても今と同じように漫画を描くことしか浮かんでこないし、それで日々食いつないでいけるとも思えない。
親にも言えない、夢のような夢を追いかける僕を、本当のところ志穂はどう思っているのだろう。
この夢があったから志穂との心地いい今があることを否定はしない。ただ、実質ノーフューチャーな僕がこのままでずっと志穂といられるとは、ハタチを過ぎた今はとても思えない。
今が今のままであり得ないのに僕が僕のままでいたいというのは、単なるわがままであるに違いない。
◆
「やっぱり手、冷たいんだな」
心はあったかいもん、と志穂は気持ち口をとがらせながら、ふふふっ、と目を細める。
そんな彼女の綺麗でいて強く光る瞳に、いつも僕は照らされ、時に吸い込まれそうになる。
「『僕の手が冷たくなるまで、つないだ手、離さないでいてくれるかい?』」
何それ、と志穂は少し首を傾げる。
「……この前考えてた、没ネタだよ」
僕は下手な作り笑いをするが、志穂は真面目顔になった。
「ん……待って。それでお話、考えてみる」
そう言って志穂は手を止めた。
「いや、あのさ」
「しいっ」
口元で人差し指を一本立てるそのしぐさは、小さい頃母親がよくしていた気がする。
応募する作品には、僕はつまらない意地をはって志穂にストーリーをつけさせない。
出せるかも解らない同人誌ばかりに、だけど彼女は、いつも真剣になってくれる。
「ちょっ、違うんだ。あのさ」
まごつく僕の口元に、志穂は人差し指をそっと動かす。
「いいんだよ? ……ゆっくりで」
表情を緩めて、言う。
◆
その日のうちにできあがったストーリーを読んで、彼女には僕の不安など全部お見通しなのだと解ったとき、僕は今取りかかっている応募用の作品を中断して、そちらを描いてみたくなった。
夏はまだ長いから、ひょっとするとこの夏の間に、世に出せるようになるかもしれない。
得意そうに笑う志穂の顔を座ったままで見上げながら、僕も志穂がよくするように、口を閉じたままで笑った。
「私のこと好き?」
◆
精一杯のプロポーズが、白い原稿用紙の中に流れて消える。
その作品がのち、ある編集者の目にとまることになるのを、彼らはまだ知らない。
<了>
意図して会話文を減らしてみました。少し読みにくいかもしれませんが、僕にとっては自然な文章です。
高校生活最後の小説になると思います。集大成、と称するには時間も足りず、分量も足りないものではありますが、コメント等頂ければ幸いです。
《参照》
hand-to-mouth [形] 一時しのぎの