1話:槇波 梨々香
『──朝ダヨ、朝ダヨ、ア〜サダヨ! 起キテ、起キテ! 梨々香チャン、起キテ!』
……眠い。寝起きの朝ってどうしてこうも眠いのだろうか。カーテン越しに射し込む光は私の意識を覚醒させると同時に、惰眠を貪るように誘惑してくる。柔らかい布団は私を掴んで離さず、再び心地良い眠りの世界に引き摺りこもうとしてくる。
白旗だ。全面降伏だ。負けちゃってもいいんだ。欲には勝てなかったよ。
私は柔らかい布団に飲み込まれて、程よい人肌にまで暖められた暗闇の世界へと入り込む。
さよなら、現実の世界。そしてこんにちわ、夢の世界。私は今、人間に許された究極の贅沢を味わうのだ。
『起キテ起キテ梨々香チャン、起キテ! …………起キテ起キテ起キテ起キテ起キテ起キテ起キテ起キテ起キテ起キテ起キテ起キテ!!!』
「ああもう! うるさい!」
布団越しに聞こえてくる大音量のアラームに耐えられず、私は布団を投げて怪音波を発している鳥の頭を叩いた。
けっこう強めに叩いたのも気にせず、頭をぶらんぶらんと揺らしながら小鳥型の目覚まし時計は『オハヨウ! オハヨウ!』といつもと変わらない機械的な音声を発する。
最新型はもっと本物の人間らしい声で特殊な波形の音を発する事で無理なく起床する事ができるようだけど、長年使っていたせいか愛着が湧いて買い換えずにいる。……たまにさっきみたいに強く叩いちゃう時もあるけど。それでも壊れていないのは頑丈な証だ。さすが、メイドインジャパン。
小鳥型の目覚まし時計──名前はハロハロ──の頭を撫でるもそれに反応を示すことなく、私が起きたのを確認したらそそくさと台座に座って充電をする。まったく、愛想のない目覚まし時計め。
「早く着替えないと。お母さんに怒られちゃう」
騒音問題一歩手前のアラームを、家族もきっと聞いているだろう。このまま布団でぬくぬくしていたら、私の身に降りかかるのはアイアンクローか抱擁という名の鯖折りだろう。我が家のヒエラルキーのトップに君臨する母には誰も逆らえないのである。
まだ体がダルさを覚えるものの、芋虫のように布団から這い出て、パジャマを脱いだ。
「ん〜、ちょっと太ってきたかな? この肉がもっと別のところにいってくれたらいいのになぁ」
姿見に映る、いつもと変わらない私の姿。
少し栗色っぽい肩までかかった黒髪に、15歳にしては少し小柄な体格。顔も童顔でこれはこれでバランスがいいのかもしれないけど、やっぱり大人な体が欲しい。ボンキュッボンなスレンダーボディに、大っきいおっぱいが欲しいのだ。恨めしげに脇腹のお肉を摘まんでみるけど、お肉は消えてくれないし胸に引っ越してくれるわけでもない。指を離せば、ドヤァとでもいうように肉は揺れて存在を主張してくる。この駄肉め。
朝から少しブルーな気持ちになりながらも、クローゼットの中にかけてある制服を取って着替える。
白を基調とした生地に黒のラインで縁取られたブレザーに、スカートは白と黒のチェック模様。1年生の証である赤のリボンをつけて完成。鏡で確認するけど……うん、どこも変な所はなし!
「梨々香〜! 朝ごはんできているから食べなさ〜い」
「はーい!」
まるで見計らったかのようなタイミングで、お母さんの声が聞こえてくる。時折思ってしまうのだ。私のお母さんは超能力者なのか、はたまたカメラを仕掛けて私を監視しているんじゃないのかと。いや、ずっと一緒に生活していたから、なんとなく息が合っているだけなのだろう。
カバンの中にケータイや勉強道具を投げ入れて、部屋を出ていそいそと階段を降りていくと、リビングからだんだんと良い匂いがしてくる。
「おはよう、お母さん」
「おはよう梨々香、トーストとスクランブルエッグがあるから早く食べちゃいなさい。友達が来ちゃうよ」
「はーい」
既に朝食を食べ終えてコーヒーを飲みながらニュースを見ている女性は、私の母。艶のある青みがかった黒髪を肩で切り揃え、ピシッとした黒のタイトスーツを着ていかにも仕事ができそうなキャリアウーマン。すらっとした長身でピチッとしたスーツの上からでもわかるスタイルの良さ、出る所は出て引っ込んでいる所は引っ込んでいる、まさに私が目指すプロポーション。子持ちとは思えない抜群のスタイルをしている女性が私の母、槇波 響さん。大手アパレル会社の本部長さんというバリバリのキャリアウーマンで、私の大好きなお母さんである。今日も大人の色気、バッチリです!
「ったく、ギリギリに起きて慌てるくらいなら、もうちょっと早く起きろよな」
「うるさいです〜」
そして食卓について既に朝食をいただいている生意気な少年は、残念ながら私の弟である槇波 翔也。私の2つ下で少し吊り目ぎみの目つきの悪さが余計に生意気らしさを引き立てる、弟なのに私より背が高いスポーツ小僧。サッカー部のキャプテンで、まあ身内贔屓ではないけどサッパリとした整った顔立ちから、何度か女子に告白されている。イケメンめ、爆ぜちゃえ。
「だいたい、なんで翔也もまだ家にいるの? サッカーの朝練は?」
「今日はグラウンドの整備とかで朝練はなし。この前の大会で優勝したから、学校が新しい設備を入れてくれるんだってさ。姉ちゃんもなにか部活に入っちまえば、寝坊ギリギリに起きなくていいのに」
「私もちゃんと部活に入ってるもん。学校が終わると同時に家へと帰る帰宅部に。今まで皆勤賞だよ」
帰宅部の活動は素晴らしい。
数時間もイスに座らされた疲労から解放され、辛い肉体運動をする事もなくジュースとお菓子が完備され空調も完璧な空間でただ無為に時間を過ごす、いわば人間に許された究極の贅沢。あぁ、なんと素敵なぐうたライフ。これほど有意義な時間の浪費はない。
「そんなんだから太るんだよ」
「えっ、なんで知ってるの!?」
「冗談だったけど、マジだったんだ。うわぁ……」
「なにその哀れむようね目!? 弟のくせになまいき〜!」
まったく、小さかった頃は『おねぇちゃん』って言っていっつも甘えてきたのに、どうしてこうも可愛げがなくなったのか、お姉ちゃんは悲しいよ。
いつもと変わらない朝の光景を繰り返していると、聞き覚えのあるメロディがテレビから流れてきた。
『Another.World.Online! ついに本日より開始される大型アップデートの情報をお届けします!!』
テレビ画面で生きているかのように動いているのは、鈴音ミカという電子キャラクター。きらびやかなエフェクトで表示されているのは、Another.World.Onlineという文字。
Another.World.Online、略してA.W.O。日本が世界に誇るテクノロジー大企業のVI.GA.CE社──virtual gaming creativeの略──が5年前の2062に開発した既存のシステムを遥かに凌駕する新世代のオンライゲーム。VIGACE社が独自開発したVirtual Gearというヘッドマウントディスプレイによって脳から流れる僅かな電気信号を読み取り、自分が思ったようにゲームの世界でも体を動かせて、まるで本当にゲームの世界へと入り込む体験ができる。Virtual Diveと名付けられた新システムは全世界の人々を魅了し、VD-MMORPGという新たなジャンルを生み出した。
その人気は爆発的に広まり、日本だけでの販売本数は発売1年で2000万本を超えて、世界では9000万本を突破し、僅か発売1年で世界で最も売れたゲームとなる程の人気となった。
発売から5年経った現在もその人気は変わらず、大型のアップデートが繰り返される度に新規のユーザーが増えて、日本では3人に1人は持っている程にまで普及し、社会現象まで巻き起こしている。
朝から全国チャンネルで放送するほどだ。A.W.Oの人気がどれほどか誰でもわかる。
『今回のアップデートにより新たなエネミーとダンジョンが追加され、更に特定の条件を満たせば別のダンジョンへと飛ばされるダンジョンジャンプ機能を追加! ダンジョンジャンプの条件はダンジョン毎に違うので、初心者の方にも熟練者の方にもスリルある冒険を味わえます! 更に更に、Another.World.Online販売5億本突破を記念して、今なら1週間無料プレイサービスを実施中! もちろん、プレイサービス中に育成したキャラクターは本作を購入した際に引き継ぐ事が可能となっています。まだAnother.World.Onlineを体験していないアナタ! これを機会に是非Another.World.Onlineを始めてはどうでしょうか! 以上、VI.GA.CE社の鈴音ミカがお送りしましたぁ〜』
賑やかな声と共に終わると、再び別のCMが流れていく。先ほどの映像を気にする事なく、私たちは朝食を食べていた。
「……A.W.Oって、面白いのかなぁ?」
「さあ? 友達は面白いって言ってるけど、やったことないからわかんね」
「ゲームできるほど時間に余裕があるわけじゃないしね」
A.W.Oは日本国内ならば3人に1人がやっている程の普及率だ。しかし私たち槇波家は誰もA.W.Oをやっていない。
お母さんは仕事が忙しくて時間がないし、翔也は部活動のサッカーに集中している。私は帰宅部で時間はあるけど、私もA.W.Oはやっていない。
興味はあるけれど、A.W.Oの最大の特徴であるVirtual Diveが怖くてどうもやる気が起きない。
Virtual Diveは専用のヘッドマウントディスプレイであるVirtual Gearによって、脳内を流れる微弱な脳内信号を読み取ってA.W.Oのキャラクターの動きに反映させるシステムだ。A.W.Oをプレイしている間、手足を動かすために脳から発せられるぜ電気信号はVirtual Gearに全て送られ、現実の体が動く事はない。そのまま目を覚まさず、ずっと眠ったままになるのではと思ってしまい、恐怖感を拭い去ることができないでいる。
それからA.W.Oの話題は出ずに、私は残っていたスクランブルエッグを食べるのであった。