蝦夷とソ連からの亡命者
完全なパラレル世界です
1970年代後半
極東情勢は、緊迫していた
1976年9月5日 ソ連
「中尉、明日、一緒に飛行する武石ディンと言います」
「ああ、よろしく、君は、蝦夷人民共和国から来たのか」
「ええ、人民空軍千島航空隊所属でした、でもあそこは張りぼての砦ですよ。12年前、私の叔父は東京に首相の護衛で東京に行ったことがあるんですよ、その国の羽田空港の整備場の設備すら碌になかった」
「あれは、日本の首都の空港だろ、まぁ確かに、東陸道にある大潟飛行場の設備は日本最大規模という話らしいが」
「・・・・・・・・」
「どうかしたか」
「いえ、何も」
「日本に行きたいのか」
「・・・・・・・・ごまかせないか」
「大丈夫だ。私も一緒に行こう」
「中尉」
「私も明日のフライト試験を利用して、日本経由でアメリカへ亡命する、一緒に行く勇気はあるか」
「はい」
「・・・・・・・・、聞いたよ、お二人とも」
「オード中尉」
「お前、覚悟できたんだな」
「まさかお前も」
「正直、この基地の環境は最悪だ。俺達は道具でしかない。それよりなら自由な国に行ってみたいと思うだろ」
「ああ」
「3人でいくか」
「「ダー」」
翌日
3人は、航空訓練で離陸した
そして、遂に3人は、墜落に見せかけて日本海に向かった
ソ連極東軍は、大混乱になった
3人が操縦しているのは、ソ連の最新鋭Mig-25
それが3機とも墜落というのは大問題だった
その後、3機は日本海に到達、超低空飛行で日本の東陸道に向かった
「どこかで日本の空軍機が発見してくれるはずだ、それまで」
15分後、そのときが来た
日本海機動部隊、旗艦大和がMig-25を発見
各航空隊に打電
14分後
大潟基地を出撃した航空防衛隊FD25がMig-25を男鹿半島沖で補足
「こちらは、日本国である、ソ連空軍機に告ぐ。直ちにソ連に引き返してください」
これを英語とロシア語で繰り返し発言した
それに対して、ディンが日本語で返した
「我々は、そちらに敵意はない。亡命だ。そちらの空軍基地に誘導してくれ」
日本側のパイロットは唖然となったが、やむなく大潟基地に誘導し、着陸させた
その後、機体は、
航空防衛隊の監視下に入ったが
パイロット3人は、航空防衛隊と東陸道警察による合同聴取が行われた
防衛隊としては、領空侵犯や攻撃してこなかったこと
警察としては、不法入国と銃器不法所持で聴取した
うち、ソ連出身パイロットのアメリカ亡命が翌日認められ
二人は、ディンに別れを告げて、あっさりアメリカにいってしまった
ディンは、航空防衛隊の聴取の後、
日本航空防衛隊、ソ連空軍、蝦夷人民空軍の高官との会談に参加させられた
ソ連、蝦夷人民共和国の軍高官から、散々言われたが
彼は、ソ連極東空軍基地と千島の空軍基地の劣悪環境を批判
この会合は、日本の放送協会が中継していたため(証拠映像を生中継してしまった)
ソ連と蝦夷人民共和国の軍の環境問題が知られた
蝦夷人民共和国では、軍の劣悪な環境に対する人民軍の不満が増長
人民政府は、国民と軍に挟まれた結果
遂に、陸軍と空軍の大軍縮を強行
蝦夷の防衛は海軍が主力というのを合い言葉になった
その上で、全管区長と首相総辞職という前代未聞の騒動になった
日本でも、放送協会の局長と放送責任者と音声担当が懲戒処分
翌年2月14日にMig-25を2機返還した
残りの1機は、構造を調べた際に爆発してスクラップにしてしまったと言ううそをついて
900万ドルで買い取った
ソ連と米国の技術を組み合わせ
日本は最新の高速戦闘機を造り上げた
無論、その分金もかかった
日本は、それを北部航空隊に配属し
2001年の統一戦争では、宣戦布告後のミサイル攻撃前に、高速戦闘機を一斉に関東に疎開させ
蝦夷人民共和国上陸作戦では制空権掌握に役立った
本編では
オードが上官に密告
オードは二人の離脱をみた後、背後から攻撃し
撃墜した故に
表沙汰になっていない
だから年表にも書かれていない