蝦夷大文化革命
1965年
前年、南日本と五輪に参加した蝦夷人民共和国
だが、南の自由と民主主義を知ってしまった人民は自由と文化改革のための
大革命を起こしたのだった
同じ頃に中華人民共和国でも文化革命が起き
デモは国内全土に飛び火した
2年前にソ連軍が撤兵したことも原因
樺太管区長は、独断でソ連に樺太鎮圧要請をしたが
他は、もう革命に押され、崩れていった
1967年
蝦夷人民共和国は樺太を除き革命に倒れ
南日本に合流し統一政府になった
樺太管区は、ソ連に吸収されたが
南日本では、18歳の青年が、都内で銃を乱射しまくり
防衛隊と警察による狙撃された騒動があった
人質も左足を負傷する結末だった
犯人は一度防衛隊に腹部を撃ち抜かれるほどの狙撃されるが、最後の力を振り絞り銃を向けたが、近くに隠れていた警官に右足を打たれ、遂に逮捕された
これにより、銃規制の強化が進んだ
日本はめでたく統一されたが、樺太や沖縄の本土復帰に躍起になっていった
千島列島には、米軍が進出し、ソ連の太平洋進出が阻まれた故に、極東戦略のねりなおしを決めた結果
1989年
ドイツ統一と同時に
ソ連も軍事予算などの混乱で空中崩壊し
ロシア連邦となったが、その混乱をついて、日本は樺太奪還と物資支援を行い、
樺太を軍事的に、経済的に調略したのだった
日ロ平和条約の前に提出された、食料支援条件書類に
南北樺太の独立もしくは日本への割譲
ロシアは、軍事技術を売ってでも食料が必要な状態だったので要求を呑むしかなく
日本は、1991年6月、ようやく、元の日本領域に戻ったのだった
終わり