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アロワナ

作者: 手羽 サキチ 

約3500字の短編です。

アロワナ


あれは小学5年生の時だった。夏休みに入る3日前に私は母に連れられて隣県の温泉型リゾート施設に来ていた。

朝自分の家で目を覚ましてから朝ごはんを食べようと1階に下りると居間の時計が10時30分を指していたので私はとても驚いた。母はソファに座り、涼しい顔でコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。母はわざと私を起こさなかったのだ。学校には既に遅刻している。なんだかむらむらと怒りが湧いて私は母をにらみつけた。

「お母さん、なんで起こしてくれなかったの。」

母親は新聞を置いて私の方を見た。

「だっていくら起こしてもあなた寝ていたのよ。もうあと3日で夏休みでしょ。もういいじゃないの。」

もういいじゃないの。私にとって学校は必ず行かなければならない場所だ。母は学校に関してどこかいいかげんなところがあったと思う。母の母、私の祖母がふとあの子はろくに学校もいかん子だったからね、とあきれたように言っていた。

「ね、それより今から出かけない?」

母はそう言って白い歯を見せて笑って私の頭を撫でた。その時私は母の腕に昨日は無かった青い痣があるのが見えた。私はうん、と頷いた。


それから母は私が寝ている間に既に準備した荷物と私を軽自動車の後部座席に積むと自分は運転席に乗って車を発進させた。母の助手席にはいつも小さなテディベアが置いてある。私は黙って座っていた。母は時々よくわからない歌を口ずさんでいた。昨日の夜のことを考える。昨日父は家に帰ってから不機嫌だった。とげとげとしていた。私は父を刺激しないように早々に自分の部屋に行ってさっさと寝てしまった。それから私は14時間も眠っていた。父が不機嫌なことはたまにあることだ。父は決して悪い人間ではない。いつも私に優しくしてくれる。それでも父は怒ると自分の気持ちをコントロールできずに物を壊してしまうことがある。父の怒りのスイッチがいつ入るかは私にも、母にも、そして父自身にも分からないのではないかと思う。貯金箱、地球儀、ボールペン。父が壁に叩きつけるとそれはいとも簡単に壊れる。プラスチックの貯金箱は破裂して私の貯めていた1円玉が飛び散った。地球儀の球は真っ二つに割れた。私は割れた地球儀を見てそうか、地球儀は空洞になっていたのかと知った。ボールペンは簡単に折れた。壊れた物を見て父は自分のしてしまったことにおびえたような顔をしてたたずむ。そして我に返ったように壊したものを片付ける。その破片で私と母がけがをしないように。それでも父は私と母に直接手を上げることはなかった。私は車のハンドルを握る母の手、腕を見た。右腕の青い痣。あれは父がやったのだろうか。だとすればついに父は家族を傷つけないという自分で守っていたきまりを破ったことになる。私の心の中に小さな波紋が広がっていくのを感じた。母の歌は相変わらず音痴で何の歌なのかも分からない。車の外を見るといつのまにか高速道路に乗っていた。


それから母はA温泉リゾートという建物の駐車場で車を停めた。A温泉リゾートは少し古びた施設だった。母と私は車から降りると建物の玄関に向かった。駐車場の黒いアスファルトは湿っていてむっとした熱気があった。

母が私の手を引こうとして手を差し伸べたので私はその手を軽く払った。もう5年生だ。いつまでもあーちゃん、と呼ばれるのも嫌だった。弟妹のいない私にはおねえちゃん、と呼ばれる妥協策はない。そろそろ亜美と呼んでほしかった。母は特に嫌な顔をせずに歩き続けた。施設の入り口で利用券を買うと私と母は更衣室で着替えた。

母が服を脱いで水着に着替えると、右腕の痣がはっきり見える。大きさは私の拳くらいだ。そのアザ、どうしたの。その言葉を呑み込んだ。そこにいた中年の女性が不思議そうな顔で私を見る。

「あら、夏休みはあさってよねえ。東京の方からいらっしゃったの?」

私が何と返事すれば良いのかわからずにこにこしていると母が笑った。

「ええ、実家がこの近くで夏休みなので帰ってきたんです。」

すると女性はああ、そうなのと言って更衣室の出口に向かった。お母さんはうそつきだ。お母さんの実家は今住んでいる家の近くにある。母は黒縁の眼鏡を取って長い髪をヘアゴムで結っていた。

「お母さん、コンタクトにしなよ。眼鏡にあわないよ。」

眼鏡を外した方が母は少し若く見えるような気がした。

「いいよ、めんどくさいから。」

母はそう言った。

更衣室を出てシャワーを潜るとそこには広いプールがあった。ただのプールではない。細長い川のような形に曲がりくねった形のプールだった。川のようなプールははじめと終わりが繋がっていてループしていた。床には大理石のような模様がしきつめてある。私は静かにプールの水に脚をつけた。温度は冷たくもぬるくもなく、ちょうどいい。私はプールの中に入った。深さはちょうど私の顔が出る。母は私の後ろに付いていた。この川を一周してやろう、そう思って私は水の中を歩き始めた。足を動かすと水の抵抗があって気持ちがいい。手で水をかき分けながらゆっくり進む。しばらく進むと薄暗い場所の壁に巨大な水槽が埋め込まれていることに気付いた。私はその水槽に近づいた。大きな水槽の水はプールの水と同じように透明だった。その中に、黄金色の見たことのない大きな魚が3匹泳いでいる。鱗はまるで古びた金のような甘い色で鯉のような黒い目をしていた。大きさは60㎝くらいだろうか。3匹はお互いに寄り添うことなく距離を取り、悠々と泳いでいた。私はその水槽が見える場所に佇んでいた。何かの拍子で水槽の厚いガラスが破れてあの3匹の魚がこちらに泳いでこないだろうか。あの鱗に触ってみたい。そう思った。

「アロワナ。」

母が呟いた。

「あれはアロワナっていう魚なの。」

私はへえ、と言った。アロワナ。あの魚にふさわしい名前だと思った。それから私はその水槽の前で立ち泳ぎをしたり、背泳ぎをしたりして水槽の中のアロワナを眺めていた。母はいつのまにか水から上がってプールサイドの白いプラスチックのイスに座ってさっきのおばさんと話をしていた。母はまたさっきの続きのうその話をしているのだろうか。私は水槽を眺めていた。アロワナは滑らかに泳ぐ。水の抵抗を感じていないかのようにふわふわと浮いていた。私もガラスの向こうの水槽で泳いでみたい。だけれどもアロワナはどこか不気味だった。今にも人間の言葉で語りかけてくるような賢い顔をした魚だと思った。この3匹の関係は親子なのだろうか、それとも他人。良く分からない。この3匹に名前はあるのだろうか。アーちゃん、ローちゃん、ワーちゃん。そんな安っぽい名前はアロワナには似合わない。私にだってあーちゃんはもう似合わない。この施設が夜になって閉館になった後、誰もいない薄暗いプールの中でアロワナを眺めたら不気味だし怖いだろうなと思った。この水槽はどこからエサをやるのだろうか。アロワナは何を食べるのだろうか。クラスで飼っているメダカのエサは細かい粒だ。誰も見ていない放課後に私はメダカのエサを食べてみたことがある。それはびっくりするぐらいまずかったのですぐに吐き出して口をすすいだ。アロワナはメダカのように卵を産むのだろうか。クラスで飼っていたメダカの鉢はふざけている拍子に男子が倒してメダカは全部死んでしまった。鶏小屋の裏にメダカの墓を作った。アロワナが死んだときはどうするのだろうか。墓を作るのか、海や川に流すのか、案外ゴミ箱に捨ててしまうのかもしれない。そう思うとなんだかかわいそうになった。アロワナの水槽の近くには私以外誰も居なかった。遠くで他の人が泳いでいる気配がする。


それから父と母のことを考えた。このまま母は家に戻らないつもりなのだろうか。そう考えると急に不安になって胸と目頭が熱くなった。明日の今ごろ私はどこにいるのだろうか。母の考えていることが分からなかった。父の考えていることも分からない。私たち親子3人は別々の方向を向いている。そう思うと気持ちが感傷的な向きに一気に倒れて私はプールの水に頭まで潜って底に沈んだ。プールの底は水色だった。息を止める。口から空気の泡が漏れた。このままここにいたい、アロワナを見ていたい。私は、アロワナになりたい。うそつき、本当は家に帰りたいはずなのに。水の中で思い切ってばかやろうと叫んでみた。口からごぼごぼと泡が漏れた。


私の手はすっかりふやけて体が冷えたので私は水から上がった。

「ずいぶん長かったわね。もう3時間もいたのよ。」

母は感心したようにそう言った。私は軽く息を吸った。

「お母さん、腕のアザ、どうしたの。」

母はためらう様子も無くああ、本棚の角にぶつけたのよ、と言った。それがうそなのか本当なのかは10年経った今も分からない。私たち親子3人は今もあの家で暮らしている。


ありがとうございました。

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