終わりに……CONLUSION
サリュは見た。自分の人生が終わるその瞬間に。
「サリュ」
何よりも大切なその姿を。
「……わしは……永遠にあなたたちに……」
枯れはてた老人の、唯一の泉。
「お仕え……したいのです……」
その願いと同時、サリュの命は尽きた。
『彼女』は倒れ伏している老人にそっと触れる。細く白い手が優しく触れる。その両手の中指には、今まではなかった複雑な紋様の入った指輪が光っていた。とてつもない力を宿したものだと、その場に居た者が気付いたかどうか。
「サリュ、ありがとう」
封じられたはずの声で、『彼女』は言う。
わがままを聞いてくれて。今まで護ってくれて、仕えてくれて。
そして今、その命かけた願いを聞いた。それがあなたの最後の願いなら。
そうあなたが願うならば、わたしは応えよう。
『彼女』はゆっくりと立ち上がる。サリュを手にかけた追っ手たちが我に返って武器を構えた。
『彼女』の大切な人を手にかけた人間たち。
腐った国の上で、まだのうのうと暮らそうとしている人間たち。
「あなたたちが殺してきた命は……あなたたちよりもずっと価値ある命だわ」
それを知らずに消してきた。知らないフリで消してきた。
今こそ、その命を持って償え。
『彼女』の後ろで、今さっき事切れた老人は目を開ける。尽きたはずの命があることが自分にも理解できた。『彼女』がもう一度その機会をくれた。
ああ、と老人は歓喜する。もう一度、この方にお仕えできる。
それも、永遠に――!
老人は吼えた。その身はもう人ではないけれど、何よりも力ない老人の体ではないことが嬉しい。これで護れる――誰よりも大切な方を!!
ゆっくりと身を起こす。先ほど自分を突き刺した刃がぽろぽろと落ちてゆく。ひどく小さく細く頼りなく見えた。
刃が自分を傷つけることはもはやない。
自分を刺した人間たちが恐れおののき退くのが見える。
自分より弱いものには強く出るくせに、強いものには怯えて命乞いするのか。
助けてくれと祈るものがいた。魔神に助けを請うものもいる。
サリュは『彼女』に視線を向けた。この体では人の言葉はもう使えないだろう。喋ろうとしても出るのは唸り声だけだった。それでも『彼女』には通じている。
主たる『彼女』には充分に老人の声が聞こえている。サリュがなにを望んでいるのかも。
「サリュ、構わないわ。あなたがしたいようにすればいい。ここはもう滅びるだけなの。こんな歪んだところは、もう終わり」
『彼女』はそう言ってくれた。そうか、と老人は理解する。魔神はもうどこにもいないのだ。いるのは、老人が何よりも大切にしていた二人。
あきらめなかった二人が、奇跡のような現実を手にしたのだと理解した。
サリュは咆哮する。それは喜びの声だった。開放を告げる声だった。
サンディーノの終わりを告げる声――。
***
シェリは見た。門で追っ手に斬られようとするその瞬間に。
「シェリ」
シェリは聞く。もう二度と聞けないであろうと覚悟していた声を。
追っ手はひるんだ。追っ手にとって『彼』は姫君の婚約者だ。うかつに剣を向けていい相手ではない。そのわずかな瞬間で、今の『彼』には充分だった。
手にしていた棍を軽く振るう。金属で補強していたはずのそれは『彼』が魔神に挑む前とは様変わりしていた。今は銀色の竜が巻きついている。
『彼』の髪の色と同じその竜が、とんでもない力を持っているものだと、シェリは気がついた。そして理解した。
『彼』らが奇跡を手にしたのだと。
追っ手たちが砂の塊に変化した。『彼』が棍を軽く振っただけで、だ。
ああ、間違いない。シェリは確信した。今自分の目の前にいる方は、ご自身の力で未来を切り開いた。きっと『彼女』も無事だ。良かった。
恐ろしい力を目にしておきながら、シェリが思うことはそれだった。
良かった。たとえこの場で『彼』にこの身を砂と変えられようとも構わない。
良かった。この方たちが無事で良かった……!
ただ一心にそれだけを思う。この後サンディーノには滅びがあるだろう。自分もその中に含まれても構わない。ただ、この方が幸せであればいい。
『彼』は笑った。少年らしい微笑だった。シェリの考えていることが伝わっている。
くすくす綺麗に笑いながらこう言った。
「シェリ。君をこの街と一緒に沈ませるつもりはないよ」
ふわりと、自分の身が浮くのをシェリは感じる。足先が地面から離れている。
「生きてほしい。君がぼくたちにそう望んでくれたように」
竜巻が起こった。シェリは娘たちとその中にいるというのに恐れはない。恐れるわけがない。
「そして、ね? もう一つわがままを聞いてほしい。これは塔の中にいた君たちにしかできないことだから」
サンディーノが遠くなる。『彼』も遠くなる。それでもその声ははっきりと聞こえた。
『彼』の願い。わがままなどではない。そうするべきだとシェリも思う。
もう二度と、サンディーノのような場所は作らせない。こんな歪んだ場所はあってはならない。そのためには、ほかの人々に伝え続ける必要がある。
こんな愚かな真似はしてはいけないよと、言い続けなければ。
人は愚かだから、醜いから、せめて同じ過ちを繰り返さぬように。
「はい……はい! お守りいたします、その役目を……この命ある限り!」
塔の中にいた娘たちと、シェリにしかできないことを、託された。
腐りきったサンディーノの実情を後世に伝える語り部として。
ああ、とシェリは思う。なんて幸せなのだろう。
大切な方に望まれた。生きてほしいと望まれた。何より大切な役割を託された。
これ以上の幸せがあるだろうか。
竜巻が娘たちをそっと優しく町や村に下ろしてゆく。サンディーノが滅ぶことをこれから彼女たちは伝えてゆくのだ。
最後にシェリが残された。天高く竜巻は上り、サンディーノの最後をシェリに見せた。
咆哮が聞こえる。シェリにはそれがサリュだと理解できた。サリュはあそこへ残るのだ。サリュ自身がそれを選んだのだろう。少しうらやましかった。『彼』らにお仕えしたい気持ちはシェリも同じだ。
でも、自分には役目がある。優しい竜巻が町に近付いてゆく。あそこで、自分にできることをしよう。シェリは胸に手を当て、『彼』に向けてそう誓う。
託されたこと、この命の限りお伝えいたします。
ですから……お待ちしてもよろしいでしょうか。
いつかもう一度、あなた様方にお仕えできることを。
サリュのように、永遠に――。
竜巻が消え、シェリはふわりと地面に降ろされた。それから一輪の花が彼女の手に舞い落ちる。
砂漠にありえない、鮮やかな白い花。
それが約束だと、シェリは理解した。
***
「何が起きておる!?」
騒ぎの中、姫君はそう叫ぶ。
贅沢で華やかな宴は一瞬にして終わりを告げた。
水が枯れ、緑が失せてゆく。なにが起こっているのか誰も理解できていない。
竜巻が起こり、何も知らない子供の姿だけが消えた。残っているのは腐敗を知っていながら、その上で安穏と暮らしていた者ばかり。
「一体なんじゃ! どうしたというのじゃ!」
王が叫ぶ。娘の命惜しさにほかの娘を犠牲にしていた王。
「なにが起こっているのか、わからない?」
鈴のような美しい声がした。誰もがその声に動きを止めた。聞いたことがないような美しい声。目をやると、月を背に、妖精かと思うような美しい娘が立っている。
姫と同じ年頃のようだが、姫よりも遥かに美しい娘だ。
「……そ、そなたは?」
王はうろたえた。その娘をほしいと思った。今あるハレムの中の女のどれも目の前の娘にはかなうまい。この期に及んでも、王は己の権力を疑っていなかった。己が望むものは何でも手に入ると思っている。魔神の力がかなえてくれると信じていた。
「あなたが知る必要はない」
その傍らに、少年が立っている。銀髪の――愛娘の婚約者に選んだ少年だ。
二人とも、美しかった。まるで人ではないかのように、幻想的でただ美しい。
「あ、アジュ?」
姫が呼びかける。少年は応えない。必要がないからだ。
王も、姫も、この国も。
「さよなら、汚い大人たち」
風が吹いた。少年と少女の姿は消え失せる。
王は最後まで何も分からなかった。自分と姫の体が砂の塊になっても。
豪奢な建物だけが残り、人の姿はサンディーノから消え失せた。
その夜、サンディーノは砂に沈む。遥か昔に絶滅したはずの砂竜が上空を飛び、その背には二つの人影があった。
以来、夢の都は竜巻に閉ざされる。
嘘と欺瞞と欲望が渦巻いていた腐敗の都は一夜で消滅し、入ることを許されぬ、幻の都と化した。
それが、百年前の話。
遠い遠い過去のお話。
ほんとうにあった、これが真実。
子供だからできる選択と、大人がした選択。その末路は終焉でした。