シングルステッチ
本町の実家は、湿気っぽくて、薄暗かった。
弟が死んだと連絡を受けたとき、
私が最初に思ったのは「せいせいした」だった。
あの家に居座り続けて、働きもせんと、
朝から酒をあおって、いつも天井を睨んでた弟。
あの子がいたから、私は実家に戻れなかった。
戻りたくもなかった。
でも……やっぱり、あれは家だったのよね。
弟の死後、遺品の整理をしに行った。
古びた家。埃だらけの玄関。
玄関に置かれた小さなスリッパ。
母のだろうか。いや、違う。
台所の隅に、くたびれたバッグがあった。
淡いピンクの布に、子どもっぽい刺繍。
白いマルチーズと、睡蓮の花。
縫い目はガタガタで、裏返すとほつれだらけだった。
でも、それは――あたしが小学生の時、
家庭科の授業で母に作ってあげたバッグだった。
「なん、これ…」
思わず声が漏れた。
なんで弟がこんなもの持ってたのか。
母が取っておいて、あの子に渡したのか。
犬好きな弟には、捨てられなかったのか。
意味なんて、もう誰にもわからない。
酒で染まった部屋の中で、
このバッグだけは、ほとんど汚れていなかった。
きれいに洗って、干した。
寝ぐせみたいに跳ねた糸が風に揺れて、
まるで誰かがまだ、生きてるように思えた。
それをバッグにして、今日、銀行に来た。
本町の実家を売る手続きをするため。
つまり、全部にケリをつけるためだ。
銀行の受付で手続きを告げると、
「三階へどうぞ」と、丁寧すぎるくらいの案内をされた。
まるで、今日という日があらかじめ準備されていたようだった。
二階で呼ばれるまでのあいだ、
冷房の効いたロビーで一息ついた。
隣の若い人が、番号札を握りしめてる。
ポロシャツにリュック。きっと何か困って来たんやろな。
私の肩には、あの刺繍のバッグ。
マルチーズと睡蓮の花が、ちょっとだけ誇らしげに見えた。
「暑いわぁ……」
ぽつりと呟いて扇子を広げた瞬間、
ああ、私も今日で、少女時代が完全に終わるんやなって思った。
あの日、母と弟が笑ってくれた。
「あらまぁ、マルチーズやなんて上等やな」
「姉ちゃん、お針子さんみたいや!」
――あの声だけは、まだ覚えてる。
そして、それを手放せなかった弟のことも、
……まぁ、ちょっとだけ、思い出してあげてもええかな、とは思ってる。
執事みたいな人が声をかける。
「お待たせいたしました、三階にお席をご用意しております」
「はーい。おおきに」
私は立ち上がり、バッグの紐を肩にかけた。
足取りは軽くない。でも、どこか清々しい。
バッグの中には、通帳と、古い鍵と、あの子の保険証。
そして――少女だった頃の、ちょっとだけ器用な自分。
エレベーターのドアが閉まる直前、
ガチャリと閉まった心の先に、海賊の子分みたいに笑う弟が見えた。
でも、まあ、それでええのよ。
人生の節目って、エレベーターみたいにふと来るものやから。
三階の扉が開く音がして、
冷たい風が、足元を撫でた。




