三階
真夏の午後。
ビルのガラス面に映る雲が、にじんで溶けそうだった。
キャッシュカードの上四分の一が切れたのは、さっきの昼食後だった。
ふと財布から取り出した時、スッと、力もなく裂けていた。
鋏で切ったように平行に。
何かの兆しかと思うほどに、綺麗だった。
予定があった。
けれど今のうちに行くのが正解だと判断し、
最寄りの駅前支店に向かったが、運悪くそこでは対応できないと言われた。
四条烏丸――
午後の陽炎が立つビル街のど真ん中。
細身のスーツと香水の残り香が行き交う場所。
その中で、私は切れたカード片手に、わずかに肩を落としながら歩いた。
なんてこったい。
銀行の建物は、まあ何とも言えない趣きがあり、ドカンと佇んでいた。
奥まった受付、左右に振り分けられた空間。
入ってすぐ、受付の女性に案内される。
「こちらの手続きは、二階で承ります」
その声に少し驚いた。
キャッシュカードの再発行なんて、チョチョイのチョイじゃないの?
けれど私は番号札を受け取り、
涼しいエレベーターで、静かに二階へと上がることにした。
二階は、まるで別世界だった。
ゆったりとした間取り、柔らかそうなソファが並び、
窓から射し込む光さえも優しくフィルターがかかっているようだった。
「……あ、間違えたかな」
そう思うほどだった。
ソファにはスーツ姿の男性たちが、
書類を読みながら静かに待っていた。
横には高級バッグを置いた女性。爪先まで整った佇まい。
私はというと、特売のポロシャツにリュックサック、くたびれたパンツ。
居心地の悪さを感じながらも、
渡された番号札をぎゅっと握り、空いた席に腰を下ろした。
しばらくして、隣にひとりの女性が座った。
「暑いわぁ……」
ぽつりとつぶやきながら扇子を広げる。
マスクの奥に小さく笑ったその顔は、どこにでもいそうな「おばちゃん」だった。
淡いクリーム色のブラウスに、七分袖のカーディガン。
手元には、色とりどりの刺繍が施された布製のバッグ。
そこには、小さなマルチーズと、咲き乱れる睡蓮の花があった。
……上品ではない。でも、どこか目を引いた。
気さくそうだと思った矢先、彼女の前に、黒のスーツを着た男性が姿を現した。
年配だが、所作が静かで洗練されている。まるでバットマンの執事のような立ち居振る舞い。
「お待たせいたしました、三階にお席をご用意しております」
私は、その言葉に一瞬耳を疑った。
三階? そんなフロア、案内図にはなかった。
一階と二階だけの、日常的な銀行だと思っていたのに。
「はーい。おおきに」
おばちゃんは穏やかに立ち上がり、
あのマルチーズと睡蓮のバッグを肩にかけ、
ゆっくりと執事のような男性とエレベーターへ向かった。
足取りはゆったりとしていて、どこにも“急ぎ”はなかった。
ドアが閉まり、数秒後。
表示パネルに、数字の「3」が点灯した。
私は、ぼんやりと思った。
何にでも、何処にでも、“二階”や“三階”ってあるのかもしれない。
見えないけれど、確かに存在していて、
ごく自然に人々が分けられていて、
そのことに誰も気づかないふりをしているだけなのかもしれない。
階段やボタンの数じゃなく、
応接の質でもなく――
その人がどこへ向かうのか、
それはきっと、長い時間のなかで静かに決まっていく。
外見じゃ、わからない。
“ふつう”に見える誰かが、
実は長く大きな流れの中で、
一番奥の部屋へと通される資格を持っていることがある。
私は、切れたカードの番号札を握りしめながら、
なんとなく背筋を伸ばした。
今日、自分がどこへ通されたかではなく――
三階があるという、そのことに気づけたことが、
少しだけ面白かった。
外に出ると、アスファルトが溶けそうな日差し。
風が一本、通り抜ける。
私はリュックの中の書類を確認し、
スマホをしまって、ゆっくりと歩き出した。
胸の奥に、小さな問いを携えて。
「あたしの人生の“三階”って、どこにあるんだろうね?」




