上洛
なぜ来たのか、自分でも分からない。
悔しかったからかもしれない。
置いていかれたみたいで、腹の底がざわついたのだ。
新さんが京都の東山に住んでいることは、LINEで知っていた。
絵文字も顔文字も使わない短い文章。
「俺ぁ、元気でやってるぜぃ」
そこから匂い立つ空気は、たしかにあの人のものだった。
でもきっと、本当は落ち込んで、しぼんでいる。
——そう思っていた。
東京駅のコンコースは、夏休みの観光客で溢れていた。
キャリーバッグの車輪が床を鳴らし、アナウンスが重なり、
駅弁の匂いが混ざった空気がまとわりつく。
新幹線の改札を抜けると、ビルの谷間の風が一瞬、肌を撫でた。
光沢のある車体がホームに滑り込んできて、
ドアが開くたびに冷房の風とエンジン音が押し寄せる。
窓際に腰を下ろすと、ガラスに自分の顔が映った。
頬に残るわずかな緊張。
「何してんだろ、私」
でも、戻る気にはならなかった。
シートが背中を包み、列車は東海道をひた走る。
高層ビルが遠ざかり、工場の煙突、川、緑がリズムよく流れていく。
米原あたりから空が広くなり、夏雲の白さが目に沁みた。
京都駅で降り、206のバスで東山へ向かう。
窓の外、瓦屋根が連なる景色と、
路地を行く浴衣姿の観光客が視界を横切る。
湿った熱気が、バスの車内にまで入り込んでくる。
新さんは思いのほか元気な顔で笑っていた。
「まぁ、家に来るかい?」
あっけらかんとした声。
想定していた弱った姿とは違う。
拍子抜けして、でも少し安心した。
通された部屋を見て、もっと驚いた。
浅草六丁目にあった新さんの自室が、そっくり再現されていたのだ。
古い文机、擦り切れた座布団、窓辺の小さな植木鉢。
あきれて、笑って、でも——嬉しかった。
どうしようもない人だと思いながら、心の奥がじんわり温かくなる。
「まぁ、なんだ、飯でも食いに行くか?」
その一言で、自分が新さんの生活の隙間に入り込めた気がした。
嬉しさが、胸の奥にふわりと広がる。
晩夏の鴨川を、二人で歩く。
川面は淡く波打ち、夕暮れの光が銀色の帯を作っていた。
水面との距離が近い。
髪の長い女子高生がダンチクの茂みに佇み、嬉しそうに西空を見ていた。
私はずっと、こんなふうに新さんと隅田川を歩きたかった。
でも、ここは京都。
水の匂いも、風の重さも、全部違う。
行きしな、日傘をさした上品な女性とすれ違う。
新さんが「よっ!」と声をかける。
なるほど、ああいうのが京美人か……と思ったら、まあまあ婆さんだった。
ああ、愉快爽快。
この気持ちを横取りされるところだった。
まったくこの男、その軽さが、東京でも京都でも変わらない。
橋を渡り、新さんは看板のない民家に入っていく。
「邪魔するよ」
中は綺麗にリノベーションされ、木の香りと生活の匂いが漂っていた。
無駄な装飾はなく、光と影が穏やかに溶け合っている。
でも、それだけじゃない。
なんとなく分かった。
この店がやろうとしているのは、くたびれた継承でもない。
営みに土足で踏み入るような価値観のアップデートでもない。
もっと静かで、もっと深い、
“そのままでいるための新しさ”だった。
こんなところ見つけるなんて、なんとも新さんらしいと感じた。
席に着き、私は調理場に目をやる。
小さな窓から入る斜陽が、カウンターを少しずつ染めていく。
新さんはメニューを開きながら、ふと笑って言った。
「ここは、初手せんべろセットが定石だぜぃ」
私も同じものを、同じ時間を。
「おまえ、ずいぶん遠くまで来たな」
——そうかもしれない。
でも、ここまで来てしまったのなら、
しばらく、この人の隣に座っていたいと思った。




