エコロケーション
「ようけ通うてくれて、兄ちゃんももう京都人やなあ」
いつもの白川沿いの食堂で、おばちゃんが笑う。
その日は鯖味噌と豆腐の白和え。地味だが、染みる。
僕はそれを黙って頷いて受け取る――もう何年目だろう。
福岡からこっちに出てきて、仕事にも慣れた。
でも、いまだに京都の「会話」は、よくわからないことが多い。
最初は違和感だった。
言葉に“意味”がないように感じたんだ。
たとえば、こんなやり取り。
「新しいパン屋さん、よう並んではるわ」
「ほぉ〜、えらいことやわぁ」
「美味しいんやろか」
「さぁ~」
何も言ってねぇんだよ。
でも音だけは、やけに整ってる。
まるでどこかの民族音楽みたいに、音節が呼応して、
間合いがリズムになって、まるで意味というよりは「音波」みたいだった。
その日、俺は鯖を噛みながら、ふと店内の会話に耳を傾けていた。
背中合わせのテーブルで、常連のじいさんとおばちゃんが喋ってる。
「この間、西さんとこでなあ、ほらあの…な、あの子」
「あぁぁ、あん時のなぁ」
「せやせや、あの話やわ」
――ああ、と思った。
こいつら、会話してない。
いや、意味を交わしていない。
共鳴してるんだ。音とリズムで、互いの精神をなで合ってる。
俺の脳に突然、あるイメージが閃いた。
こいつら、イルカだ。
しかもシロイルカだ。
水の中で、音波を出し合ってる。
脳幹と前頭葉の端っこを直結して、会話の形をしたソナーを撃ち合ってるだけだ。
その瞬間、世界が変わった。
俺は思わず、箸を置いた。
この食堂に、何年も通ってた。
けど、初めて理解した気がした。
京都の人間は、意味で繋がっていない。
音で通じてる。
意味は後から来る。
まず音。音調。間合い。
それが「わかる」という合図になる。
“落ち”がないとされるのは、波の形が美しくないからだ。
俺はふと、窓の外を見た。
白川の水が揺れている。小さな波が陽をはじいて、光を撒いていた。
そのリズムも、会話みたいだった。
たぶん、ずっと前から気づいていたんだろう。
でも脳が理解するまで、数年かかった。
食堂のおばちゃんが笑う。
「兄ちゃん、今日はえらい静かやね」
「……ああ、やっとちょっと、分かった気がして」
俺はかみ合わないリズムで、角ばった言葉を放ち、鯖味噌をひとくち口に運んだ。
あぁ、とぜんなか。




