正面橋
正直俺はもう、自分が何をしているのか分からなくなっていた。
一日を通して積み重なった疲れが、骨の奥にまで沈みこんでいる。
呼吸をするのさえ、何かを思い出すように重かった。
それでも川を渡ろうと歩いていたのは、ただ足がそういうふうに動いただけなのかもしれない。
菊浜の酒場に、雨を逃れるように滑り込む。
戸口を開けると、鼻先に広がるのは馴染みの匂い──酒の甘い香り、総菜の胃袋を刺激する香り、床から立ちのぼる湿った木と土の匂い。
不思議と胸の奥を緩めてくれる。
疲れ切った体に、その混ざり合った香りは優しく突き刺さり、ここが「帰れる場所」なのだと教えてくれる。
外の雨に打たれ、どこか心細かった自分を、そっと包み込むような匂いだった。
外は土砂降りに近い雨だった。今日は五山送り火の日。
例年なら胸のどこかにざわめきがあるはずなのに、その夜の俺には何もなかった。
ただ雨が落ちて、傘を持たずに歩いてきた足元がじっとり濡れている。
店主がカウンターの奥で呟いた。
「雨の日は火もかわいそうやな」
そう言って、いつもは後回しにする窓掃除を始めた。
グラスから放たれるガラスをたたく水音が、雨音に混じって単調に響く。
その規則的な音を聞いていると、かえって落ち着いた。
──これでいい。
燃える山を見るには、今の気持ちは弱すぎる。
大文字の炎は強すぎる、俺には重すぎる。
時間の感覚が曖昧になっていた。
雨音と布のこする音に溶け込むように、酔いで心の輪郭がぼやけていく。
外から聞こえるのは、濡れたアスファルトを走る車の水しぶきの音だけ。
酒をひと口あおる。喉を通る液体は、期待ほど熱をくれなかった。
やがて、雨脚が弱まり、そして止んだ。
それを合図にしたかのように、店の隅にいた客たちが顔をほころばせる。
「お、止んだな」
「ありがたいこっちゃ」
笑い声が小さく連なり、それが熱を持って空気に広がっていく。
その温度に押し出されるように、俺は席を立った。
正面橋に出ると、川面に街灯の光が流れ込み、濡れたアスファルトを照らしていた。
七条と五条、両側の光が交錯するこの場所を、俺は好んでいた。
夜風はまだ湿っているが、雨に洗われた空気は幾分か澄んでいる。
八時が近づき、人々が川沿いに集まりはじめていた。
派手な色のスカーフを首に巻いた老婆。
缶ビールを片手に、煙草をくゆらせる爺さん。
夜に備えて化粧を落とし、すっぴんで佇む若い女。
橋の欄干を叩きながら走り回る子供たち。
それぞれの生活と、それぞれの疲れを抱えながらも、皆この夜に同じ方向を見ている。
やがて、火がともった。
遠くの山に赤い点が浮かび、次第に線を描いていく。
「おぉ…」と静かな歓声が、波のように広がる。
東大文字の端っこが、闇夜からわずかに覗いた。
その小さな炎の連なりを、誰からともなく手を合わせる仕草。
「今年もついたね」
「良かった良かった」
そんな声が、夏の鴨川の水音と一緒にすり抜けてゆく。
俺は立ち尽くしたまま、それを見ていた。
火は強すぎると思っていた。
けれど、こうして群衆と一緒に眺めると、不思議なことに胸の奥の疲れがほんの少しほどける気がした。
雨が洗い流した街の匂い、冷えた川風、そして炎。
すべてが一瞬、均衡した。
──あぁ、雨が上がった。
それだけで、もう十分だった。




