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安井金毘羅宮
誰かが言っていた。
「安井金毘羅宮はすごいよ、空気が違うから」って。
笑い話のつもりで来た。
“映える”とされる、あの縁切り碑に潜るために。
観光客が列をなすその様子を見て、
私はどこかで冷笑していた。
でも、鳥居をくぐった瞬間、
空気が、変わった。
息が詰まるような、音のないざわめき。
人の気配はあるのに、誰も話していない。
いや、話せないのかもしれない。
並ぶ人たちの後ろ姿を見て、
私ははっと気づいた。
ああ、ここは――
精神病院の待合室だ。
それぞれが何かを患い、
手に余るものを抱えて、
それでも順番を待っている。
誰もが自分の番を黙って待っている。
切りたい相手。
終わらせたい関係。
封じたい記憶。
自分で処理できない想い。
絵馬には文字がびっしりだった。
「別れられますように」
「死んでくれますように」
「私を助けてください」
願いというより、叫び。
祈りというより、処方箋を求める声。
風が吹いても、鈴の音がしても、
まったく癒しにはならなかった。
私はその列に並ばなかった。
でも、
帰り道、しばらく歩けなかった。
あの場所に置いてきた“何か”の影が、
伸びてずっと足元にまとわりついていた




