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ええもん

蝉の声が、遠くなってきていた。

それでも塩小路橋のたもとでは、まだどこかの木が鳴き続けていて、

ひとりの男が、黙ってその下にいた。


薄いジャンパーに釣り竿、足元にはコンビニ袋。

新聞とチューハイと、セッターのソフトパック。

缶を開けて口をつけ、煙草に火を点ける。

火を吸い込むたびに、目の奥が少しだけ潤む。

誰に見せるわけでもなく、新聞を広げ、黙って風に身を任せる。


鴨川の流れは、このあたりでは少し重たくなる。

川の色は深くなり、忘れられた時間が、水面にうっすらと影を落とす。

朝の涼しさがまだ少し残る時刻。

それでも、陽射しの角度はすっかり斜めになっていて、

季節が交代を知らせにきたような空気だった。


そこへ、もうひとりの男が歩いてきた。

洒落たカンカン帽に薄手のシャツ、片手にビールと、小脇に抱えた新聞。

「釣れるもんかね?」

気安くないけど、棘もない声。


「いや、さっぱりやわ。川がスレとるんか、ワシが鈍うなったかやな」

ふたり、互いを一瞥し、わずかに口元が動く。


どちらも、顔に刻まれた皺の本数が、物語を語る年齢だった。

それぞれの時間と場所を生きてきたはずなのに、

その空気は、まるで昔からそこにいたように自然だった。

川の流れと、蝉の鳴き声。

ときどき吹く風が、煙草の煙と一緒に、いくつかの言葉を持っていく。


「……夏も、終わるねえ」

ぽつりとこぼれたその言葉に、返事はなかった。

だが、それでよかった。

風が川面を渡り、ふたりの間の沈黙に、少しだけ表情をつける。

言葉ではなく、缶の開く音が、沈黙に応えた。


わずかに口元が緩む。

目は合わさない。けれど、視線の先にある川は同じだった。

川の向こうを、京阪バスがゆっくりと渡っていく。

エンジン音が遠ざかると、蝉の声がまた戻ってくる。

かすかに、風鈴のような自転車のベルがどこかで鳴った。


ふたりとも、名前も知らない。

住所も、職業も、家族も、訊かない。

けれど、ここ最近、週に二度三度は、同じような時間に、同じ場所にいる。

気がつけば、なんとなく、互いのペースを読むようになった。

相手が缶を傾ける間は話さず、釣り糸を垂らしたら、黙って見守る。

言葉にしない距離感が、心地いい。


若い頃なら、こんなふうに誰かと並んで時間を潰すことに、もどかしさや負けを感じたかもしれない。

でも今は違う。


川面を見つめながら、どちらともなく、ふっと漏れるように笑った。

「お互い、ええ歳して、何を探しとるんやろな」

「まぁ…朝から缶持って川っぺり座ってんのも、なかなか乙なもんだぜ」

笑いが重なる。

笑い終わって、また黙る。


その様子を、女が七条大橋から見ていた。

日傘をもった手が、ふと止まる。

夏の名残がすべる光のなか、静かに語らうふたりの男の姿。

「……あれは?

 ……なんや、ええもん見たわ」

そう言い、微笑む。

男たちは気づかない。

風と川と、缶の音が、今日の静かな奇跡をそっと祝福していた。

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