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スティング

東京に来て三か月。

ゲイであることは、この街ではもう特別じゃなかった。

誰も驚かないし、誰も詮索しない。

むしろ僕の京都弁と、間を置くしゃべり方のほうが、よほど珍しがられる。

なんや、結局僕を異邦人にしてるのは、ゲイであることやなく“京都”なんやな、って思った。


ゴールデン街に足を踏み入れると、空気が一変する。

狭い路地にぎゅっと詰め込まれた数百軒の酒場。

看板は小さくて、手書きのネオンや木の板にペンキで塗っただけのものもある。

ビルというより、まるで古い長屋を切り刻んで並べたような作り。

二階へ続く急な階段の横には赤い提灯が垂れて、煙草の煙と酒の匂いが風に混じって漂ってくる。


路地は人一人がやっとすれ違えるくらいで、壁には歴史のしみが残っている。

「小説家の卵」「アングラ劇団の俳優」「サラリーマンの逃げ場」──

そんな人たちの声がごちゃ混ぜになって、夜の空に抜けていく。


僕は小さな木の扉を押した。

十人も座ればいっぱいになるカウンターだけの店。

壁際には古いポスター、ポラロイド写真、常連が書き残したメッセージカード。

頭上には埃をかぶったレコードのジャケットが無造作に飾られている。


バーテンがこちらを見て、氷をトングでつまみながら言った。

「ひとり?」

「はい、ひとりで」

そのやりとりだけで、狭い空間の温度が少し変わった気がする。


マスターが kinobi にアンゴスチュラビターズを2ダッシュ。

澄んだ音を響かせる。

衝突音。

カウンターに視線が集まった。

古びたポスターの色褪せ、

埃をまとったランプシェードの黄ばみまで、

一瞬にして解き放っていく鐘の音だった。


音は広がり、空気を震わせる。

バーテンの指先、隣の男の吐く煙、

壁に貼られたポラロイドの記憶、

そのすべてが粒子みたいに散らばって、

境界を失った。


ちょうどそのとき、スピーカーから流れてきたのはスティングだった。

“Englishman in New York”

ニューヨークで生きる異邦人の歌。

不思議なことに、僕の胸にもぴたりと重なった。


隣に座った作業服姿の男が、ふと僕に顔を向ける。

粗野な感じが割と好みだ。

「イントネーション関西ですね、国はどこだい?」

「京都です」

その言葉を出した瞬間、店の中に柔らかいざわめきが走った。

思えばこの街では、誰も僕がゲイであることには興味を示さない。

けれど“京都”という一言で、僕はこの場所に異質な輪郭を持った。


バーテンは無言でボトルを取り出し、透明の液体をグラスに注ぐ。

煙草の煙が天井にたゆたって、黄色いランプの光を霞ませる。

壁に映る影がゆらゆらと揺れて、時間の流れがゆっくりに感じられる。


ゴールデン街の狭い路地の向こうから、笑い声やピアノの音がかすかに届く。

窓のないこの小さな酒場は、外界から切り離された水槽みたいで、

中にいる誰もが少しずつ自分の「異邦性」を持ち込んでいる。


──不思議なもんや、この街は歩きやすい。

明日はどこに行こか。

二丁目の奥か、それともまたこの路地に戻ってこようか。


スティングの残響が夜を揺らす。

その旋律に、僕の影は少しずつ東京に馴染んでいった。

“A gentleman will walk but never run”か。

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