辻斬り
東山三条の小さな喫茶店で、彼はいつも決まった席に座っていた。
カウンターの角、観葉植物の影。
私はその視線に、もう何度も体をなぞられていた。
眼鏡の奥にこもる目は、礼儀正しく、執拗だった。
瞬きの間に評価し、すれ違いざまに保管する。
だが彼は言葉を発しない。ただ、じっと見る。
まるで地蔵のように。
私はノートPCを広げた。
指が沈黙を破る。キーボードが、彼の存在を言葉で汚していく。
「彼の視線は、水の濁りだ。
一度入ったら、抜けられないヌルヌルの底に引きずり込まれる。」
文は進む。
彼は何も変わらない。
しかし私の中では、既に彼は“斬られて”いた。
「その目は、神のふりをした犬の目だ。
下から覗き上げて、媚びて、歯を隠す。」
カフェの中はジャズとアイスコーヒーの汗ばみ。
彼はカップを持ち上げ、こっちを向いた。
その瞬間、私はそっと目を逸らした。
言葉はまだ止まらない。
「彼は私を見ているのではない。
若さという物体を、棚に並べている。」
次の日も、その次の日も彼はいた。
そして、ある日突然、いなくなった。
空いた椅子は、ただそこに在る。
肩が、少しだけ軽くなっていた。
けれど、奇妙な空虚さが胸に溜まる。
――自分は、見られることで完成していたのではないか。
そんな疑念が、湿った夏の空気と共に喉に貼りついた。
その夜、私は全ての文章を消去した。
「作品」ではなく、ただの呪詛だったことに気づいてしまったからだ。
それでも翌日、また喫茶店に向かった。
パソコンは持たず、小さな文庫本だけを手にして。
カウンターの角に空席はあったが、奥の窓辺に座った。
彼を斬ったことに満足していない。
でも、斬らずに済ますほど、世界を赦しているわけでもない。
ページをめくりながら、
目の奥で、また別の誰かを斬る準備をしていた。




