九十九里
もし俺たちが本当に逃げ出せていたなら。
九十九里の浜辺に小さな小屋を建て、潮風に吹かれながら暮らしていたなら。
朝は潮の引いた干潟に降りて、裸足で泥に足を沈め、黙々と貝を掘る。
砂の感触に手が痺れ、潮の匂いが肺を満たす。
俺は貝を手に掲げて、振り返る。
そこにはあいつがいる。
子どものように笑って、手ぬぐいを額に巻き、腰を曲げながら波に足を浸している。
朝を染める陽光の赤が、彼の頬を染めている。
それは、俺が知っているどんな酒の酔いよりも鮮やかな色だった。
昼は、通りすがりの観光客に呼び止められる。
「自転車のチェーンが外れてしまって」
俺たちは笑いながら直してやる。
「ありがとう」と手渡された缶ジュースを、並んで飲む。
炭酸の泡が喉を突き抜けるたびに、あいつは肩を揺らして笑った。
都会で浴びせられた嘲笑や軽蔑の眼差しは、ここにはない。
ただ、浜風と波の音と、俺たち二人の呼吸だけがある。
夜になれば、波打ち際に座り、砂に腰を下ろす。
海は闇に溶け、空には星が散らばる。
焚き火を囲んで、小さな鍋に貝を放り込み、湯気に潮の香りが立ちのぼる。
あいつは空を見上げ、俺に向かって言う。
「世界はこわれたおもちゃや。けどな、こわれても遊べるんや」
その言葉に、俺はただ頷く。
二人で酒を分け合い、一口飲む。
その瞬間、世界が俺たちを祝福したように思えた。
潮騒は遠い拍手のように鳴り、星々はグラスの中で泡立つシャンパンのように瞬いた。
――そうしたかった。
心から。
逃げ出して、誰にも邪魔されず、ただ二人で生きていきたかった。
けれど現実は違った。
俺は残された。
目の前に九十九里の浜辺が広がった。
焚き火の炎、波打ち際の闇、星の瞬き。
あいつはそこに座っていた。
「おかえり」
そう言って笑い、俺にグラスを差し出す。
涙で曇った視界の向こうで、俺はあいつと並んで酒を飲む。
一口飲むと、世界が確かに祝福した。
苦くて、甘くて、涙のようにしょっぱい。
こわれたおもちゃのような世界の中で、それだけが本物の味だった。
現実では叶わなかった。
だが走馬灯の中で飲む一杯は、永遠に壊れない。
九十九里の風が頬を撫でる。
幻の中で、俺は恋人と並んでいる。
そしてその笑い声は、決して消えることなく、波の音に混じって響き続けるのだった。
会いたい。
空腹に似た魂の渇望。
忘れられないよ。




