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セクストン

扉が開いた瞬間、音はねじれた。

カップを重ねる小さな陶器の響きが途切れ、

ジャズの旋律が一拍だけ空白をつくった。

その隙間から冷たい夜気が店に流れ込み、

私の肺を震わせた。


香りもまた変わった。

焙煎豆の甘い匂いに混じって、どこか湿った影の匂いが漂う。

祇園の夜を歩き回った客たちが持ち込む煙草や香水ではない。

もっと奥に沈んだ、嗅いではいけないものの気配。


男は窓際に腰を下ろし、一杯のブレンドを頼んだ。

カップが置かれ、湯気が立ちのぼる。

彼はその表面をじっと見つめていた。

波紋ひとつない黒い湖。

そこに映っているのは彼自身ではなく、

こちら側にとどまろうとしない魂の影だった。


笑い声は遠ざかり、夜の音だけが支配する。

コーヒーの香りは確かに漂っているのに、

それは救いではなく、彼の沈黙を包む薄い棺のように思えた。


私は知っている。

死は、乾いた風のように去ることもあれば、

湿った影となって絡みつくこともある。

その夜、彼を覆っていたのは後者だった。

祇園の灯に照らされても剥がれない影。

肺にまで沁みこみ、息を奪う呪いのような死。


それでも私は番をする。

コーヒーの香りは夜を守る灯り。

豆を挽く音は見えない鐘の響き。

雫が落ちるたびに、私は世界を少しだけ均している気がした。

祇園の片隅で湯を注ぎ、香りを立ち上らせる。

一杯のコーヒーが、闇と死の境界に微かな線を引く。

それが私に与えられた役目だ。


声はかけない。

言葉にしてしまえば、私まで沈んでしまうから。


ただ心の中でだけ囁く。


――さようなら。

この夜を見守る番人として、私はあなたを見送ろう。


夜は私が預かるから。

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