恋人よ逃げよう──世界はこわれたおもちゃだから
あいつに出会ったのは岩倉の病院だった。
ただの精神病院じゃない。
酒に溺れて、もうどうにもならなくなったやつが運ばれて来る場所だ。
俺も同じ穴の狢。
何度もここに戻ってきては、断酒と再飲酒を繰り返していた。
でもあいつは違った。
無鉄砲で、傷だらけで、どこか子どものように笑った。
「なあ、一緒にここを抜け出そうや。世界はこわれたおもちゃやろ」
あの時の言葉は、冗談みたいだったけど、俺には救いのように聞こえた。
中庭で煙草をくゆらせながら、未来の話をした。
退院したら鴨川を歩こう。
比叡山に登って汗をかこう。
夜は祇園で朝までコーヒーを飲もう。
「良い店を知ってるんや」
あいつはよく、そう言っていた。
そんな夢を口にするだけで、壊れた世界にひとすじの朝日が見えた。
けれど現実は冷たかった。
会社はあいつを呼び戻し、家族は「意志が弱い」となじった。
酒はどこにでもあった。
コンビニに、スーパーに、ストリーミングサービスのCMに。
俺は必死に避けたが、あいつはそうはいかなかった。
再飲酒はあっという間だった。
そして、あっけなく崩れた。
震える手で缶を持ち、笑いながら泣いて、最後は静かに沈んでいった。
残された俺は断酒を続けようとした。
あいつの分まで生きようと思った。
でも夜が長すぎた。
隣にいたはずの声がない。
笑い声が消えた川沿いを歩くと、心臓の鼓動ばかりがやけに響いた。
裏三条の夜。
俺はコンビニで缶チューハイを手に取った。
プルタブを引いた音が、あいつの笑い声と重なった。
涙で曇った視界の向こうで、増水した鴨川が鈍く光っていた。
「恋人よ逃げよう──世界はこわれたおもちゃだから」
誰に届くでもない声だった。
そして俺もまた、こわれたおもちゃになった。




