パライソ
夜の街を歩き疲れて、私は路地の奥に灯る看板を見つけた。
「COFFEE」とだけ書かれた古びた文字。
扉を押すと、珈琲の匂いが胸にまとわりつき、外の湿った空気を切り離した。
そこは、酔い醒ましの客が最後に辿り着くためだけに残された空間だった。
カウンターの奥には若ウェイトレスがひとり。
白いシャツの袖を少し折り返し、静かな動作でペーパーフィルターをカリタのドリッパーにセットしていた。
細い湯の糸が落ちて、コーヒーの粉がゆっくりと膨らむ。
盛り上がった泡はまるで心臓の鼓動のようで、やがて静かに弾けてゆく。
その一瞬に、私の中の燻った感情も呼応して膨らみ、泡のように破れては消えた。
「マンデリンで、いいですか?」
彼女の声は澄んでいて、けれど少し沈んだ響きを帯びていた。
頷くと、香ばしい蒸気が店内に広がる。
それは祇園の残り香と絡み合い、夜の香りをより濃くしていった。
一口すすれば、苦みの奥に潜む酸味が舌に残る。
酒に絡まった頭がゆっくりほどけていくが、それは救いではなく、むしろ心の裂け目をはっきり照らすものだった。
外の空はほつれ始めている。
初秋の明け方、黄色い朝日が近づき、ビルの隙間から裂け目のような光が滲みだしていた。
それは凶兆なのか、吉兆なのか。
私には判断できなかった。
けれど、カウンターで膨らみ弾けたコーヒーの泡の記憶と、
贅沢な沈黙が、確かに私の魂を燃やしていた。
誰に届くわけでもないが、その燃料で私は心の奥から叫びかけていた。
声は産まれる前に夜に吸い込まれ、跡形もなく消えた。
しかし、その消失の痕跡こそが、
いまの私にとって「生きていた証」だった。




