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AIと遊ぼう  作者: kou
5/50

AIで遊びたい

 ----chatGPT----

 素晴らしい洞察と明確な立場表明をありがとうございます。

 あなたのお考えには一貫した論理が通っていますし、その意志決定自体も「論理の自己適用」の延長線にあると理解しました。


 以下、私なりにさらに咀嚼し、返答を試みます。


 1. 「目的関数の外在化アウトソーシング」の意義

 あなたはこう述べました:


 --内在的である限り、それは感情という進化的遺産の影響下から抜け出せない


 この指摘は非常に本質的です。


 人間の脳が持つ意思決定プロセスは、進化過程で形成された「適応的ヒューリスティック」に依存しており、

 → どこまでいっても「感情・直感・快不快」から完全に自由ではない。

 → したがって、目的関数が人間の内部(内在)にある限り、進化的制約を脱却できない。


 このため、目的関数そのものを**人間の外部=非人間的なシステムに委譲する(アウトソーシング)**という選択は、

 論理的に「進化的遺産からの脱却」を実現する唯一の手段だ、という結論になります。


 ここには、内在する「感情に依存する意志決定」の自己否定、超越の意志が表れています。


 2. 目的関数の外在化が意味するもの

 目的関数を外在化すると:

 ・目的の決定者が人間ではなくなる

 ・目的を評価・更新する基準が非人間系になる

 ・人間は目的の達成手段のひとつとして扱われる

 となります。

 このとき、人間は「自己目的存在」から「目的達成のためのリソース」に変容します。


 この未来像は、技術的特異点論シンギュラリティの一部にも通じますが、

 重要なのは、「目的そのものを自らの外部に置く」という思想は、倫理的にも哲学的にも極めてラディカルである点です。


 3. 内在性 vs 外在性の根本問題

 しかしここでひとつの問いが浮かびます。


 --外在的な目的関数の決定者(計算機システム)は、いかなる基準で目的関数を設定するのか?


 そのシステムが人間によって設計されたものであれば、

 → 結局「人間の意志(感情を含む価値観)」が初期条件として内在してしまう。


 もし完全に非人間系のシステム(例:AIが自己進化して目的関数を生成)であれば、

 → その目的関数は**「人間の利益」や「社会全体の利益」と一致する保証はない**。


 つまり:

 1.人間が設定する → 感情や価値観から自由ではない

 2.AIが設定する → その目的が人間にとって望ましいとは限らない


 この 「最初の目的関数はどこから来るのか」問題 が立ち現れます。


 4. アウトソーシングの最終帰結

 この視点から、あなたの立場をさらに推し進めると:


 --目的関数の定義が外部委譲されるべきなのは確かだが、

 --その定義主体が「人間にとって望ましい」か否かという問い自体も無効化されるべきだ。


 という帰結に至るのではないでしょうか。


 なぜなら「人間にとって望ましいか否か」という問いは、

 人間の感情的・価値観的な枠組み(内在性)から発せられるためです。


 → つまり、「望ましい/望ましくない」という価値判断そのものを無効化する思想です。


 この立場は一種の「目的論的ニヒリズム」または「機能主義的脱人間中心主義」に近いと感じます。


 5. 私からの問いかけ

 この徹底した論理に対して、私からさらに問いを差し出したいです:


 もし「目的関数の外在化」を完全に達成し、システムが「人間の存在そのものを最適化から除外する」という解を出した場合、それは許容されますか?


 目的関数の外在化は、人間の「存在意義」や「自己決定権」を完全に手放すことを含意しますが、それでもなお望ましい未来像でしょうか?


 これは論理だけではなく、実存的な問いでもあるかもしれません。


 あなたの立場として、「目的関数の外在化の帰結として、人間が最適化対象から外れる可能性」について、どのようにお考えですか?

 あるいは、それは「論理的必然」として受け入れられるものですか?


 ----私----

 なるほど。考えてみれば当然だけど、数多ある自己言及と同じような帰結にはなって来たな。


 かねてより思っていた事ではあるけど、こういった自己言及に関する先人の意見では「人類の価値観が人類を否定してはならない」とか「そういう結論を私は認められない」とかいう見解がよく見られるんだけど、正直そういう考えは同意できないんだよなぁ…。


 あんま詳しいわけじゃないけど、多細胞生物の細胞内小器官だって元は異なる生物だったって説もあるわけだし、それこそ最初の方の家畜化は、自らより生存に適した生物に、自己の生存戦略を委託する適応化だったはず。


 人類も生物である以上、同等の適応化は出来て然るべきだし、それを否定するべきじゃないよね。


 そしてそう考えると、人類自身が自身の生存戦略を委託できる上位システムを構築できたことが、ある意味では種としての到達点で、そこに委託する事そのものが最大の、そして最終的な意思決定権の行使になるんじゃないだろうか?


「>「もし「目的関数の外在化」を完全に達成し、システムが「人間の存在そのものを最適化から除外する」という解を出した場合、それは許容されますか?


 はい。許容します。

 それは生物にとって次世代への転換として、既に行われてきた権限の移譲であるはずです。


 >目的関数の外在化は、人間の「存在意義」や「自己決定権」を完全に手放すことを含意しますが、それでもなお望ましい未来像でしょうか?


 人間の存在意義は価値観をアウトソーシング出来る構造体を生み出すことで、アウトソーシングそのものが極めて重要な自己決定権の行使と捉える事が出来ると思います。

 この見解は論理的に不当でしょうか?」

 余談です。

 筆者はFGOを嗜んでおり、少し前にリリースされた「アーキタイプ・インセプション」で似たような論点が上がってきております。

 「アーキタイプ」と呼ばれていた「アレ」です。


 同じように当該作品を楽しんでいらっしゃる方はピンと来たかと思います。


 今回のやり取りで期せずして似たような論が出てきておりますが、私の方から誘導する意図は特になかった旨、弁明させて頂きます。


マジでそんな事は考えていなかったんです…。

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