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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

隣の視線

作者: 相沢 司

「隣の視線」



第一章:新居と隣人


佐藤遥香は、新しい家の匂いに鼻を慣らしながら、引っ越しの荷物をほどいていた。都心から少し離れた住宅街に立つ築10年の一軒家は、木の香りと湿気が混じる。埃っぽい窓枠、軋む床板、かすかにカビ臭い押し入れ。それでも前の狭いアパートよりずっと広く、静かだ。夫の翔太が汗だくでソファを運び込み、二人で笑いながら配置を決めた。窓の外には似た家々が並び、隣家の庭には色褪せた洗濯物が風に揺れている。引っ越しの喧騒の中、隣家の玄関が開き、花柄のエプロンを着た女性が笑顔で出てきた。

「こんにちは!引っ越してきた方よね?私、隣の山田美津子よ。よろしくね」

声は穏やかで、母親のような温かみがあった。遥香は荷物を下ろし、会釈した。

「佐藤遥香です。こちらこそよろしくお願いします」

45歳くらいだろうか。髪をゆるく結び、目尻に細かい皺が寄る笑顔が印象的だった。だが、エプロンの裾が汚れ、爪の間に黒いものが詰まっているのが気になった。引っ越しの疲れを癒すように、遥香はその優しさにほっとした。

「いい家だね、翔太。静かで落ち着くよ」

「そうだな。通勤も楽だし、言うことなしだ。やっとまともな暮らしができる」

夕飯にカレーを煮込み、二人はビールを手に乾杯した。カレーのスパイスの香りが部屋に広がり、初めての夜に温かさが満ちた。だが、深夜2時過ぎ、遥香はカタカタという音で目を覚ました。隣の家からだ。耳を澄ませると、女のハミングが混じる。不規則で、時折甲高い笑い声のように跳ねる。美津子が何かしているのか、疲れに負けて眠った。夢の中で、ハミングが近づき、彼女の耳元で囁くように響いた。

翌朝、ゴミ出しに出ると、美津子が笑顔で近づいてきた。ゴミ袋から異臭が漂う。

「おはよう、遥香ちゃん。昨日はよく眠れた?」

「おはようございます、山田さん。はい、ありがとう」

「この辺、静かでいいわよね。私も引っ越してきた時はそう思ったの。ねえ、家族は何人?」

質問が唐突で、遥香は一瞬戸惑ったが、笑って答えた。

「二人だけです。私と夫で」

美津子は目を細め、じっと遥香を見つめた。笑顔が固まり、目が鋭く光った気がした。遥香は気づかず会釈し、家に戻った。翔太に話すと、彼はコーヒーを飲みながら笑った。

「優しそうな人だったよ。ゴミ出しで会ってさ」

「近所付き合いなんてそんなもんだろ。いい人そうじゃないか」

翔太が仕事に出かけると、遥香は掃除を始めた。窓枠を拭いていると、隣家の二階の窓に美津子が立っていた。カーテンを手に微笑み、じっとこちらを見ている。手を振るでもなく、ただ見つめる。首が微かに傾き、口元が不自然に上がる。遥香は気まずく思いながら手を振り返したが、カーテンが閉まると、胸に冷たいものが落ちた。窓ガラスに残る指紋が、彼女のものではない気がした。

数日後、庭で洗濯物を干していると、美津子の声がした。

「遥香ちゃん、洗濯物多いわね。家族って大変よね。ちゃんと干せてて偉いわ」

窓越しに彼女がこちらを見ている。口元が笑っているが、目がかない。

「そうですね」

遥香は笑顔で答えたが、不安が膨らみ、携帯で写真を撮った。ズームすると、美津子の顔が暗く映り、口角が不自然に上がっている。夜、翔太に写真を見せた。

「山田さん、ずっと見てた気がして…」

「ただの近所付き合いだろ。気にしすぎだよ。写真だって、暗いだけじゃないか」

その夜、深夜のカタカタ音が響いた。ハミングが続き、時折甲高い笑い声が混じる。遥香は目を覚まし、耳を澄ませた。音は壁を這うように近づき、窓の外で止まった気がした。

「毎晩あの音がする。おかしいよ」

「疲れてるんだろ。俺には聞こえない」

窓の外を覗くと、隣家の窓に明かりが漏れ、複数の影が揺れていた。カーテンの隙間から、何かがこちらを覗いている気がした。

---


第二章:証拠と異常の深まり


翌朝、遥香は隣家の周りを歩いてみた。新聞が数日分溜まり、庭の雑草が伸び放題。フェンスの隙間からゴミ袋が覗き、一つが破れて中身がこぼれている。女性用の下着、髪の毛が絡まった櫛、爪の欠片、血が滲んだ布切れ。異臭が鼻をつき、遥香は吐き気を抑えて後ずさった。足元に転がる櫛には、彼女の髪と似た色が絡まっていた。

「何…これ?」

その日、彼女は家に閉じこもり、カーテンを閉めたまま過ごした。翔太が帰宅すると、震えながら訴えた。

「隣のゴミ袋、気持ち悪かった。血とか髪とか…。美津子さん、おかしいよ」

「お前、疲れてるんだろ。ゴミなんてそんなもんだ。落ち着けよ」

翔太の声は優しかったが、どこか他人事に聞こえた。遥香は目を閉じ、美津子の笑顔とゴミ袋の異臭が頭を支配するのを抑えきれなかった。

その夜、遥香は決意した。寝室の窓際にスマホを置き、録画をセットした。深夜2時、カタカタ音とハミングが始まり、時折「遥香ちゃん」と囁く声が混じる。彼女は布団に潜り、耳を塞いだが、音は頭蓋骨を直接震わせるようだった。翌朝、映像を確認すると、隣家の窓に美津子が立っていた。双眼鏡を手に、口元が異様に歪んで笑い、首が不自然に傾いている。カーテンが揺れるたび、背後に複数の影が蠢き、何かが這うように動く。一人暮らしのはずなのに。

「翔太!これ見て!山田さんが…!」

翔太も顔を青ざめ、声を震わせた。

「確かにヤバい。警察呼ぼう。今すぐだ」

昼間、遥香は隣家の裏手を再び訪れた。ゴミ袋から腐臭が漂い、下着や櫛に加え、血まみれの歯や爪、指の欠片が散らばっている。風がゴミ袋を揺らし、血の付いた布が彼女の足元に飛んできた。触れると冷たく、ねっとりと湿っていた。警察に電話をかけた瞬間、隣家からガラスが割れる音と甲高い笑い声が響いた。笑い声は「遥香ちゃん、遥香ちゃん」と連呼し、壁を叩く音が混じる。彼女は電話を握り潰しそうになりながら震えた。

警察が到着し、隣家に踏み込むと、家は腐臭と湿気に満ちていた。壁には爪で抉られた傷跡が血を滴らせ、リビングにはカメラ、双眼鏡、血が付いたハサミ、錆びた包丁が散乱し、床には髪の毛が編まれた紐が渦を巻いている。テーブルの上にはノートが置かれ、乱雑な字で日記が埋まっていた。

「新しい子が来た。顔がいい。声もいい。毎日見てる。髪が欲しい」

「脱ぐ瞬間が好き。髪の匂い、肌の感触、全部欲しい。切り取ってあたしのものにしたい」

「もうすぐよ。準備できた。触りたい。切りたい。食べたい」

日付は遥香たちの引っ越し日から始まり、昨夜まで続いていた。字は震え、血で滲んだ箇所がある。二階のクローゼットに隠し扉があり、中にはプラスチックの箱。髪の毛、爪、服の切れ端、血が滲んだ包帯が詰まっている。壁には遥香を含む女性の盗撮写真が貼られ、顔に赤ペンで目が描き足され、首に×印が刻まれている。地下室に降りると、モニターが並び、遥香たちの家の内部映像が映し出されていた。彼女が朝食を作る姿、風呂に入る姿、寝室で眠る姿。メモには行動が分単位で記録され、血で染まった指紋が押されている。

「7:32 朝食。卵焼き。少し焦げてる。美味しいそう」

「19:15 風呂。シャンプーは左から二番目。髪が濡れて綺麗」

「23:47 寝返り。右を向く。首が細い。切り取ってあたしのものにしたい」

赤ペンで「触りたい」「切りたい」「私のもの」と殴り書きされ、紙が破れ、血が滲んでいる。地下室の隅には血のついた包丁、髪の毛を編んだ紐、血で固まった布団が散乱。壁には血で「見てるよ」と大きく書かれ、爪で抉られた跡が放射状に広がる。棚には容器が並び、「ミサキ」「ユウコ」「ハルカ」と名前が記され、中には歯、皮膚、指の欠片、血で固まった髪の束。古いカセットテープからは、美津子の掠れた声が流れ出した。

「あたしが見てるよ。どこにいても、見てるから。全部あたしのものよ。切り取って、ずっとそばに置くの」

警察が地下室を調べている時、異変が起きた。モニターの一つが突然点滅し、リアルタイムで隣家のリビングが映し出された。美津子が立っている。花柄のエプロンに血が飛び散り、包丁を手に笑っている。彼女はモニターを見つめ、口を大きく開いてこう叫んだ。

「遥香ちゃん、見てるよ。あたし、ずっと見てるからね。逃げても無駄よ!」

その瞬間、画面が暗転し、地下室の電気が一斉に消えた。警察が懐中電灯で照らすと、美津子はどこにもいなかった。リビングに戻ると、エプロンだけが床に残され、血の足跡が玄関まで続いていた。

---


第三章:終わらない監視と死の目撃


警察の捜査が進む中、美津子の行方はつかめなかった。血の足跡は庭で途切れ、まるで蒸発したかのようだった。遥香と翔太は引っ越し、新しいアパートに移った。明るい部屋で朝食を作り、夜はドラマを見て笑った。だが、彼女の耳にはあのハミングが残り、目を閉じるたび、美津子の笑顔と血のついた包丁が浮かんだ。

引っ越して数日後の夜、窓の外でカタカタ音が聞こえた。不規則で、ハミングが混じる。音は壁を這うように近づき、窓の外で止まった。遥香は飛び起き、耳を澄ました。ハミングは「遥香ちゃん」と囁き、笑い声が跳ねる。翔太は眠ったまま動かず、彼女は一人震えた。翌朝、郵便受けに差出人不明の手紙が入っていた。写真には、新しい家のキッチンで卵焼きを作る彼女が映っている。画質が粗く、背景に誰かの指が写り込んでいる。裏には血のような赤い字でこう書かれていた。

「どこにいても見てるよ。逃げても無駄よ。あたしのものよ」

遥香は息を呑み、警察に連絡した。美津子は行方不明のはずだ。捜査員が駆けつけ、近隣を調べたが何も見つからなかった。その夜、カタカタ音とハミングが再び響き、窓に近づくと、公園の街灯の下に人影が立っていた。顔は見えず、手には双眼鏡。彼女がカーテンを引くと、人影は笑うように首を振って消えた。窓ガラスに、血の指紋が残っていた。

数日後の夕方、遥香は一人で家にいた。翔太は残業で遅くなるという。外が薄暗くなり、カタカタ音が再び響き始めた。今度は隣家の方向ではなく、遠くから近づいてくる。彼女は恐怖に駆られ、窓に近づいた。すると、前の家の庭が見える位置に、美津子が立っていた。花柄のエプロンに血が飛び散り、包丁を手に持つ。彼女は遥香を見つめ、口を大きく開いて笑った。

「遥香ちゃん、見てるよ。あたし、ずっと見てるからね」

美津子の声が風に乗り、遥香の耳に突き刺さった。彼女は凍りつき、動けなかった。美津子は包丁を自分の首に当て、ゆっくりと切り始めた。血が噴き出し、エプロンを赤く染める。彼女は笑い続け、首が半分裂けても声を止めない。

「逃げても無駄よ。あたしのものよ。ずっとそばにいるからね」

遥香は悲鳴を上げ、目を逸らせなかった。美津子は包丁を腹に突き刺し、内臓を掴んで引きちぎった。血と肉が地面に落ち、彼女の手が震える。首が完全に切れ、頭が傾いても、目は遥香を睨み、口が笑う。

「あたしが死んでも、誰かが…見てるよ…遥香ちゃん…切り取って…あたしの…」

最後の言葉が途切れ、美津子は血だまりに倒れた。頭が地面に転がり、目が遥香を見つめる。彼女は膝をつき、吐き気を抑えきれず嘔吐した。

警察が駆けつけた時、美津子の遺体は血だまりの中で冷たくなっていた。死に際に残したメモは血で固まり、こう書かれていた。

「あたしが見なくても、誰かがずっと見てるよ。逃げられないからね。遥香ちゃん、ずっとあたしのそばにいてね。あたしの一部になってね」

モニターには、彼女が死にゆく映像がループで流れ続けていた。「遥香ちゃん、ずっと見てるよ」と連呼する声が、警察の無線を越えて響いた。

遥香は新しい職場で働き始めた。昼休み、同僚のミホが笑顔で話しかけてきた。

「佐藤さん、朝いつも卵焼き作るよね。いい匂いがするよ」

遥香はその日、パンとコーヒーしか食べていない。ミホは続けた。

「昨日、窓から見えたの。美味しそうだったわね」

ミホの目が虚ろに泳ぎ、口元が美津子のように歪んだ。帰宅後、ゴミ箱に誰かが食べた卵焼きの包み紙があった。血が滲み、髪の毛が貼り付いている。その夜、翔太が帰宅すると、遥香は震えながら訴えた。

「翔太、また誰かに見られてる。美津子が死んだのに…死ぬとこ、見ちゃった…」

「落ち着け。疲れてるんだよ。幻覚だろ」

翔太の声は空虚に響き、目が泳いだ。彼がシャワーを浴びている間、遥香は彼の鞄を覗いた。中に、見覚えのない携帯電話。電源を入れると、彼女が窓辺に立つ写真が映し出された。撮影日時は昨夜で、背景に血の付いた指が写り込んでいる。メッセージが浮かんだ。

「遥香ちゃん、ずっと見てるよ。あたしのものよ」

翌朝、コンビニで、見知らぬ男が近づいてきた。30代くらい、眼鏡をかけた平凡な顔。

「卵焼き、美味しかったよ。もっと近くで見たいな」

振り返ると、男は消えていた。空を見上げると、電柱に小さなカメラが映った。隣のビルにも、街灯にも。どこに行っても、視線は続く。美津子は一人ではなかった。彼女の異常な執着は、死を超えて誰かに引き継がれ、遥香を追い続ける。

(終わり)

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