ハル
「普通」の定義を「特別ではない」とするならば、僕は間違い無く普通の高校生だと思っていた。
学校へ行き勉強する。予習、復習を学校で済まし、家に帰る。家では自分の好きなことをする。名作と呼ばれている映画、音楽、本をあさり、その中で、気に入った場面、一節、言葉たちを心の中にレンガのように積み上げる。そうする事で、自分が大人になれる気がする。
それが十代の特権であるかのように、本当の自分と言うものを信じ、それを探している。
未来への不安と希望。ありふれていて、誰でも抱えているはずの感情が僕にだけは何倍にも膨れ上がってのしかかっているような気がする。
高校最後の夏。やけに雨の多い夏休み。僕は彼女に出会う。
くしゃくしゃの髪、大きな目、高い鼻、曲がった唇。全体として決して美人ではないが、見る者に不思議な印象を与える。死ぬ三日前のピカソが「奇妙な女性」と言う題で人物画を描いたら、恐らくこんな感じだろう。そう思わせる風貌だ。
これは彼女と僕の物語。
僕の世界は、彼女と出会うことで、文字通り、色を変えてしまう。
何日ぶりに、雨があがり、代わりに太陽が顔を出した。じりじりと照りつける太陽の光が道路に出来た水溜りを奪っていった。
八月の空気には雨と太陽の匂いが入り混じっていた。僕はそんな空気を肌で感じながら、図書館までの道をとことこと歩いた。
その図書館は小さな役場の中にあった。何の変哲も無いところがその図書館の特徴だった。僕はその場所が好きだった。何時間も集中して本を読める場所というのはその他に無かったからだ。時々訪れる表情に乏しい老人や、暇を持て余した主婦を除けば、僕は大抵一人だった。多くの本に囲まれていると、僕は獲物を前にしたフクロウや、楽譜を前にした指揮者のように厳粛な気持ちになる事が出来た。
子供の頃から一人が好きだった。一人が好きというより、一人でいる時間が好きだった。他の誰でもない自分自身と多くの時間を供にしてきた。そのためか、今までに親しい友達が出来た事は無かった。他の友達のように、ただの友達を親友と呼ぶ事が出来なかっただけかもしれない。どちらにしても、僕には心を通い合わせるような人はいなかった。
それは家族に対しても同じだった。大げさに聞こえるかもしれないが、僕は昔から父や母に対しても他人として付き合ってきた。血の繋がっている唯一の存在。頭では分かっていても、日々の生活の中でそれを実感する事は無かった。幼い頃はその事で随分悩んだりもしたが、今は確信している。
僕は生まれつき、孤独を望んでいるんだ。
そう考えると、人生はひどくつまらないものに思えた。皆は次々に新しい外の世界に飛び出して行くのに、僕だけはトラックをぐるぐると回っている。一人長距離走みたいに。限られた世界での限られた人生。
そんな事を考えながら歩いている内に、図書館に着いた。久しぶりの太陽の光とは逆に悲観的な事ばかり浮かんだ。
誰が見ても図書館の扉だと思うような扉。僕は少し深呼吸をしてから、扉を開けた。冷房の空気を感じた。汗がおもしろいように引いていった。
図書館は役場を二階に上がったところにあった。広さは、よくある学校のものより少し広いぐらいだった。調べ物用のコンピュータが何台か置かれていた。子供が遊ぶためのスペースや、本をゆっくり読むためのソファーがあった。全体として悪くない雰囲気だった。
入り口からすぐの受付には親しみやすい空気を纏った女性が座っていた。三五歳ぐらいだろうか。若く見せれば二十代にも見せる事が出来るだろうに、それをせず、自然のままの美しさを持っていることに好感を持った。
僕が来た事に気付くと、彼女は嫌味にならない程度に微笑み、お辞儀をした。彼女が笑うと、まるでこれから良い事が起こりますよ、と暗示しているようなしわが目のわきに数本できた。それにみとれて、お辞儀をし忘れるほどの素敵なしわだった。
僕は彼女にもう一度、頭を下げていつもの席に座った。冷房の空気が当たりすぎず、充分に明るいところ。入り口からは少し見つけにくい場所にあった。その席に着くと、落ち着いた。
僕は持ってきたリュックから勉強道具を取り出した。僕はちょっと有名な私立高校に通っていたので、公立高校の生徒よりはちょっと多くの宿題が出た。おそらく先生たちは「これだけやらせたから、大丈夫だろう。」みたいな証のようなものが欲しいんだろう。
学校の授業はつまらないものだったが、勉強という行為自体は嫌いではなかった。得であると言っても良かった。知識を自分の中に積み重ね、必要のある時はそれを取り出し、活用する。その作業を反復によって出来るだけ早く、正確にしていく。僕はその過程を時には楽しみさえした。特に勉強に時間を割いていたわけではなかったが、成績は悪くなかった。模試での成績もまあまあだったので、来年には地方の国公立大学を受験する事になっていた。
一二時を少しまわったぐらいだろうが、若い女の人が図書館に入ってきた。
僕はその時、一日分の宿題を終え、本を読んでいたところだった。20世紀のアメリカで出版されたもので、いくぶんか古い表現があったが充分に楽しめた。その表現はまるで、大木に絡みつくツタのように、物語の本質を意地悪く隠していた。僕はそのツタを一本、一本丁寧にほどきながら、本の世界を進んで行った。僕が求めたのは結果ではなく、過程だった。重要なのはいかに正確に表現のツタをほどけるかだった。
本に集中していたせいだろうか、先程の女性が僕の傍に来ていた事にまったく気付かなかった。
「隣に座って良い?」と彼女は言った。
それは僕に許可を求めているのではなく、決定事項の確認のように聞こえた。つまり「とりあえず聞いてあげるけど、座るのは決定しているわよ。」と言う風に。
その時、僕は驚いていたので、つい後ろを振り返ってしまった。
でも、もちろん僕以外に人はいなく、「おう、隣空いてるぜ。」と手を振り返事をする本もいなかった。そこには本を象徴する本が気難しい顔をして並んでいるだけだった。
「あなたよ、あなた」僕がきょろきょろしていたからだろうか、彼女が笑いながら言った。
「どうぞ」と僕は言った。ひどく緊張していて自分の声には聞こえなかった。
彼女が僕の隣に座った。汗の匂いがした。
「何、読んでるの?」と彼女が言った。
僕は読みかけの本を閉じ、彼女に渡した。僕の手は少し震えていた。
彼女は面白くもなさそうに、本のページをぺらぺらとめくっていた・
この娘はいったい誰で、何故僕に話し掛けて来たのだろう、という事で頭がいっぱいだった。
高校生ぐらいだろうか。赤いTシャツにブルージーンズ。くしゃくしゃの髪を青い魚の形をした髪留めで止めていた。左手の人差し指には何かのおまじないのように、銀色の指輪が光っていた。
「失礼ですけど、お会いした事はありませんよね」僕は出来るだけ丁寧な口調で言った。もしかしたら、僕の記憶違いでどこかで会ったことがあるかもしれないからだ。
「うん、ないわよ」彼女が本から顔を上げて言った。「何言ってるの。あるわけないじゃない」という風にも聞こえた。
「本、ありがとう」と言って彼女は僕に本を返してくれた。表情から察する限りどうも気に入らなかったらしい。
「ねえ」と彼女が突然立ち上がって言った。
「うん?」僕は彼女を見上げて言った。太陽の光を彼女の髪留めの魚がきらきらと反射させていた。それはまるで意思を持った生きた魚のように見えた。
「お腹空いてない?」と彼女は言った。彼女の台詞はまるで映画の台詞のように、無駄が無く、明確で分かりやすい。
「空いてる」朝ご飯にコーンフレークを食べたきり、何も食べていない。
「じゃあ、ごちそうするわ」と言い彼女は笑った。とても素敵な笑顔だった。前に見せた笑顔よりもいくらか自然の笑顔に見えた。
「じゃあ、下で待ってるから」と彼女は言いさっさと階段を降りていってしまった。
彼女が行ってしまうと、僕の周りの空気はその静けさを取り戻し始めた。僕はその静けさに少し息苦しさを感じた。孤独でいる静けさをそんな風に感じたのは初めてだった。僕は何かを振り払うように咳払いをしてみた。その音は不思議なほど響かなかったが、それでも僕は少し落ち着きを取り戻した。
僕はため息をついた。数分前に出会ったばっかりの女性に昼食に誘われている。年齢も名前も分からない人に。ただ一つ分かっているのは、僕はこれから一階に降り彼女と昼食を供にするだろう、という事だけだった。彼女には押してはいけないボタンのような、奇妙な魅力があった。なにより僕自身がもっと彼女と話をしてみたかった。
こんな気持ちになったのはいつ以来だろう。客席でのんびりと見物していたのに、急にステージに上げられた気分だ。何の準備も出来てない。
やれやれと僕はため息をついた。そのため息はこれまでとは違った種類のように聞こえた。
階段を降りたところ、つまり役場の一階にはちょっとした休憩場所があった。大型テレビがあり、数人が座れるゆったりとしたソファーがあり、食事を取る為にテーブルがあった。
彼女は一番隅のテーブルに座っていた。人通りがあまり無いところで、僕もその場所でよく持ってきたMDウォークマンで音楽を聞いた。彼女は階段を降りてくる僕を見つけると小さく手を振った。
僕も手を振り返した。誰にも見られてないはずなのに、何故か恥ずかしかった。何やってんだ、俺。らしくないな。
僕はテーブルに座ると、頭の中で考えていた台詞を言った。
「ねえ。君はどこの誰で、何故僕に話し掛けたんだい。それだけでも教えてくれないかな」
「話すと長くなるなあ」と彼女は困ったように笑って言った。
「もちろん理由の方よ。名前はそんなに長くないわ。ハル、カタカナでハルよ」
カタカナで「ハル」その言葉の持つイメージは驚くほど、彼女にぴったりだった。まるで「ハル」と言う言葉の為に彼女が作られたような気さえした。
「何だか、冬眠中の熊を起こすのに使えそうな名前だな」と僕が言うと、彼女は可笑しそうに笑った。
「あなたの名前を教えて」とハルが言った。
僕は自分の名前を言った。
ハルは僕の名前を大事な呪文のように、繰り返しつぶやいていた。まるでその名前が持つ形や、イメージを掴もうとしている様に見えた。
「素敵な名前ね」とハルは言った。
僕は驚いた。そんな事は今まで言われた事なんてなかったからだ。僕は自分が少し赤くなっている事に気付いた。何やってんだ、情けないな。
「理由の方は後にして、昼ご飯を食べましょ。私、お腹ぺこぺこで死にそうなの」ハルは本当に死にそうな顔で行った。
僕は頷いた。
ころころと良く変わるハルの表情を見ていると、人間は、目、鼻、口などの限られたパーツでいったいいくらの表情が作り出せるんだろうと不思議に思った。
ハルは床に置いていたバスケットを持ち上げ、テーブルの上に置いた。僕は本物のバスケットというものを初めて見た。真っ白で無機的なテーブルと可愛らしいバスケットの組み合わせが奇妙に面白かった。
「サンドイッチは好き?」とハルは言った。
「好きでも嫌いでもないな」
「じゃあ、きっと好きになる」ハルは悪戯っぽく笑って言った。これからサンドイッチの虜になるだろう僕を笑っているのだ、と僕は思った。
彼女がバスケットを開くと、そこには正確な三角形の形をしたサンドイッチがぎっしりと並んでいた。その切り口は「絶対においしいんだろうな」と思わせる妙な説得力があった。
「いただきます」と僕は言ってサンドイッチをほおばった。トマトとレタスだけのシンプルなものだったが、本当においしかった。パンはふわふわで、中の具はシャキシャキとして、とても新鮮である事が分かった。バターの風味もアクセントになっていて、飽きない味だった。何より、余計なものが何も入っていないのが良かった。
「おいしいな。ちょっと驚いたよ」と僕は言った。実際はちょっとではなく、大分驚いていた。コンビのサンドイッチとは大違いだった。
「でしょ」とハルは笑って、サンドイッチを手に取って上品に一口食べた。
その仕草でハルは僕の何倍もサンドイッチを食べてきたんだろうな、と僕は思った。それはピアニストがピアノを前に呼吸をする時のような一種の老練さまで僕に感じさせた。たかがサンドイッチじゃないかと思うかもしれないけど、それぐらいおいしいサンドイッチだった。
食事の間、僕達はほどんど口を開かなかった。あるものに対しては。ある態度が求められるように、僕達は静かにサンドイッチに向かい合っていた。サンドイッチの中のレタスやキュウリを食べる時のポリポリという音だけが役場の一階に響いていた。
「コーヒーを飲まない?」とハルが言った。食事が一段落した時だった。僕は頷いた。
「本当は挽き立てが良いんだけど」ハルは申し訳なさそうに言いながら、水筒の中にいれてあるコーヒーを僕に入れてくれた。
とても香ばしいコーヒーだった。嫌な苦味ではなく、一口飲むたびに、すっきりとした香りが口の中に広がった。
まるで初めてコーヒーを飲んだかのように、コーヒーを見つめている僕を見て、ハルは
「物事にはやり方っていうのがあるの。それはサンドイッチもコーヒーも同じよ」と言った。
「同感だな。でも初対面の異性を誘うのにもそれなりのやり方ってものがあると思うけど。」と僕は言った。
「ごめんなさい。私、こういうのに慣れてなくって」ハルは恥ずかしそうに言った。
「いや、良いんだ。その誘いに乗った僕も僕だしね。それの楽しかったし。でも、そろそろ教えてくれないかな。ハルが僕に話しかけた理由を」
ハルは真っ直ぐに僕の目を見た。僕が話す価値のある人間なのかを見極めているようだった。
ハルの瞳は単純な黒や茶色ではなく、もっと色々な色が混じった複雑な色だった。しかし、それは人を惑わせる複雑さではなく、「一体どうなっているんだ」と思うほど、不思議で綺麗な色だった。
ひどく長い沈黙だった。その間ずっと、ハルは僕の目を見つめていた。不思議と僕はハルの瞳から目を離せなくなっていた。
ハルは話すかどうかを迷っているというよりは、どうすれば一番自分の伝えたい事が伝わるかを考えているように見えた。
ハルは決心したように瞬きをして言った。
「お願いがあったの」とハルは言った。
「お願い?」僕は聞き返した。
「そうよ、私を殺して欲しいの」
「私と付き合って欲しいの」そんな答えを期待していた僕は、驚いて言葉が出なかった。いや、その時は驚いてすらなく、冗談だと思い込もうとしていた。しかし、ハルの瞳がそうでない事を示していた。
瞬きをした瞬間に、ハルの瞳は色を変えてしまったようだった。
繊細で微妙な色合いが失せ、代わりに淡い黒が瞳の大部分を占めていた。瞳の奥では周りの黒とは違う質の黒色がかすかに震えていた。触れるだけで傷つきそうな、小さな森の小さな動物のように。
僕はそれを見た途端、激しい寂寥感に襲われた。胸がつまり、息ができない。息ができず、言葉が出ない。
それでも僕は目をそらす事が出来なかった。そらしたくなかった。
「ありがとう」小さな子供に言うように、ハルは言った。
「もう、良いのよ」ハルは首を振った。
僕はコーヒーの水面に目を落とした。
何かを言わなきゃならない、そう思ったが、言葉は何も出てこなかった。のどを湿らすために、コーヒーを口に含んだ。それはもう冷めていて、おいしくなかった。僕達が見つめ合っている間に、誰かがコーヒーを取り替えたのかもしれない。
「どういうことかな」思いがけず、感情を殺した声になった。
ハルは答えなかった。瞳の色は元に戻っていた。いや、最初から変わってなどいなく、僕がそう感じただけの事かもしれない。
ハルはコーヒーを一口飲み
「私というのは正確じゃないわ、もう一人の私を殺して欲しいって言った方が良いかしら」と言った。
「もう一人のハル」
そう、という風にハルは小さく頷いた。
「私はある出来事をきっかけにして、二人に分裂してしまった、だからここにいるのはもう一人の私。不完全な私」
ハルは両腕で自分の体を抱きしめていた。まるで自分が消えそうになるのを必死で止めているように見えた。
僕がハルを抱きしめる事が出来たらどんなに良いだろう、と僕は思った。でも、それは出来ない。僕は彼女の事を全然知らない。
「その話を聞かせて欲しい」
僕はハルの目をまっすぐ見つめて言った。今度は絶対に目を離さない。
「君の事が知りたいんだ」
ハルは諦めたかのように、また、嬉しそうに、淡く笑った。
「これはとても非現実的な話なの」ハルは非、というところを強調した。
「構わないよ」と僕は言った。昼食に来た時点である種の覚悟は出来ていた。どうやら、僕はボタンを押してしまったらしい。
「随分前になる」
ハルは重い口を開き始めた。
それはハルの言うとうり、控えめに言って、ものすごく非現実的な話だった。
ハルは裕福な家庭に生まれた。父は建設会社の社長で、母は専業主婦だった。一人っ子だったので物には不自由しなかった。甘やかされたというわけではなく、必要なものは与えられたという感じだ。それを求める適当な理由があり、ハルが本当にそれを必要としていた場合には与えられた、練習用のピアノだったり、一緒に遊べる犬だったりだ。
裕福な家庭に生まれた一人っ子と言うと、わがままで自分勝手なイメージがあるかもしれないが、ハルは違った。むしろその正反対だった。真面目で責任感が強く、人の気持ちを知る事が出来た。
それに明るく、勉強も良く出来たので、友達は多かった。小学校では決まって学級委員に選ばれた。ハルの友達は相談事があれば、すぐにハルに相談した。ハルはどんなにくだらない事でも相談に乗り、自分の出来る限りのアドバイスをした。
当然の事だが、先生もハルの事を信頼しており、いつもクラスの中心人物だった。
ハルはいつからか、自分の言う通りに友達が行動するのを見て、楽しむようになっていた。社長である父親の影響なのだろうか。人の上に立ち、人に命令する事にハルはなれていた。
ハルはちょっとしたイタズラをするようになった。
キャッチボールをしている時、ボールをわざと相手と違う方向に投げたり、相手の質問に明らかな嘘をついたりした。そんなイタズラに相手が気付いていないのを知り、喜んだ。
ある意味でハルは歪み始めていた。でも、その歪みには誰も気付かなかった。友達、先生、両親、そして自分自身でさえも。
ハルが小学三年生になった時、一人の少女が転校してきた。
名前を早紀と言った。艶やかで、黒く、長い髪。宝石のように輝く瞳。鼻はスラっと高く、唇は今出来たばかりのように鮮やかに色づいていた。比喩でも表現でもなく、本当に天使のような少女だった。
早紀を見た者は誰でも、すぐに彼女を好きになった。ハルもその例外ではなかった。
転校初日の放課後、ハルは早紀に声をかけた。早紀は毎休み時間、みんなからの質問攻めにあって少し疲れているようだった。でも、それで分かった事もあった。
何らかの事情があって、有名私立小学校から転校してきたということ。何らかの事情があって、今は両親ではなく親戚の人と一緒に暮らしているということ。さすがにその何らかの事情というのは教えてくれなかった。
「ねえ、今日、私の家に遊びに来ない」とハルは言った。
早紀は初め、戸惑ったような困った顔をしていたが、
「今日は両親どちらともいないから、二人だけでいっぱい遊べるよ」とハルがイタズラっぽく笑って見せると
「うん、じゃあ、行くわ」と笑顔で返事をした。まるで「私は世界中の人を愛しているわ」という風な笑顔だった。彼女の笑顔にかかれば何だってとろけてしまうだろう、ハルは本気でそんな事を思った。
その日以来、二人は親友になった。
一緒に好きな音楽を聞いたり、一緒に買い物をしたりした。そしてそれ以上に二人で色々な事を話した。ハルの家にある、ソファーに二人で並んで座り、自分達の世界を享有した。
早紀と一緒にいる時間が増えれば増えるほど、ハルは早紀に惹かれていった。その代わり、他の友達とはあまり遊ばないようになっていった。
早紀はハルにないものをたくさん持っていた。豊かな感受性、独創的な視点、そして早紀はそれらを自分の言葉で表現する事が出来た。そして何より、早紀は美しかった。早紀のちょっとした動作にハルは完成された大人の魅力を感じた。ハルはどちらかというと、子供らしく、可愛い方だったので、早紀にますます憧れるようになった。
早紀に軽蔑されたくない一心で、友達にイタズラするのをやめた。自分が早紀の親友として恥ずかしくないようにしよう、とハルは思った。
でも、時折、早紀はハルがぞっとするほどの表情を見せた。
二人だけで買い物に行った時だった。ハルは気に入った服を買う事ができて上機嫌だったが、反対に早紀はいつもより無口だった。
「どうしたの」とハルが聞いても
「何でもない」と答えるばかりだった。
そういう時もあるよね、とハルが思いながら、歩いていると急に雨が降って来た。まるで何かを慰めるように降る静かな雨だった。ハルはすぐに店の下に雨宿りをしに行ったが、早紀は道路の真ん中に突っ立っていた。
黒く、長い髪が水を帯びて、キラキラと光っていた。まるで早紀が雨を操っているようにも見えた。
「何やってるの、早紀ちゃん、風邪ひいちゃうよ」とハルが言っても、早紀はある一点をじっと見つめていた。
その視線は店と店との間の路地に注がれていた。ハルはその部分を注意して見てみると、薄汚れたダンボールがあった。早紀はそのダンボールの方に近づいて行った。ハルもそれに倣った
ダンボールの中には二匹の子犬が入っていた。生まれたばかりなのだろうか、その二匹はまるで競い合うみたいに私達に尻尾を振って見せた。子供が親に言われて捨てに来たのだろう。ダンボールの側面には「飼ってやって下さい」と拙い字で書いてあった。
「ねえ、ハルの家では犬飼えないのかな」と早紀が言った。
ハルは意外に思った。どちらかと言うと、捨て犬を見て家に連れて帰ろうとするのは自分のタイプだろう、と思ったからだった。早紀は「じゃあ、交番に届けて、飼い犬を探してもらいましょう」とか言うと思っていた。
「ねえ、ハル、あなたどっちが良い?」と早紀が言った。
「えー、私はどっちでも良いよ」意外に早紀も子供っぽいかもしれないな、とハルは思った。もう、飼ったつもりでいて、自分の犬を決めようとしているのだ。
「とりあえず、持って帰りろうよ。ママに相談してみる」とハルが言いダンボールを持ち上げようとすると、早紀が
「駄目よ」と言って止めた。
「早紀ちゃん?」ハルが不思議そうに早紀を見ていると
「連れて帰るのは一匹だけよ」と早紀が言った。
「え、どうし。」
「そっちの方が面白いじゃない」と早紀は何でもないように言った。
その時の顔をハルは一生忘れないだろう。雨に濡れた髪が額に張り付き、それさえもが早紀の顔を彩っていた。でもその顔に浮かんでいるのはいつもの天使の微笑ではなく、悪魔のように冷血な笑みだった。
早紀は子犬の命と引換えにして、自分の楽しみを得ようとしているのだ。
結局はハルが早紀を振り切るようにして、二匹とも連れて帰った。
それからというのも、何となく、ハルと早紀は一緒に遊ばないようになっていった。ハルは前のように色々な友達と遊ぶようになったが、早紀の方は一人でいる事の方が多いみたいだった。
そしてある事件が始まった。
夜、ハルが自分の部屋で本を読んでいると、電話が掛かってきた。
「早紀ちゃんからよ」と母は言った。
なんだろう、とハルは思った。あの時以来、ハルは早紀とまともに話したことはなかった。それに言いたい事があるなら、学校で話しかけてくれれば良い。
「この町って空気は良いよね」と早紀が言った。
「うん、そうだね」とハルは言った。何故か背中に悪寒が走った。何かが後ろにいるみたいな気がして、ハルは後ろを振り返ったが誰もいなかった。いつも通りの私の部屋だ。
「私が前に住んでた所はもっと空気がまずかった。それにこんなに森とかもなかったしね」早紀は何かを楽しんでいる風だった。
「そうだね」とハルは言いながらも、薄気味悪いものを感じた。早紀がどんな顔をして電話の向こうにいるのかが分からなかったからだ。
「ねえ、かくれんぼしない?」と早紀が言い、小さく笑った。
「かくれんぼ。こんな時間に?」ハルは訳がわからなかった。あの時の早紀の顔が脳裏に浮かんでは消えた。自分の部屋から外を覗きこんだ。暗闇がいつもより暗く、風は重かった。
「今から学校に来てよ。いつもの教室で待ってるから」と早紀が言って。ガシャンと電話が切れた。耳が痛くなるような切れ方だった。
どうしようか、とハルは思った。何らかの理由をつければ、家を出る事も可能だろう。でも、早紀が学校にいるとは限らない。家から電話をかけて私の反応を楽しんでいるだけかもしれない。
でも、ハルは、学校に忘れ物したからと母に言って家を出た。なんだか嫌な予感がしていた。私が行かないと、誰かが傷付くかもしれない、という漠然とした不安があった。
学校までの道のりの中、ハルは自分の体が消え入りそうになるのを感じていた。体が震え、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。知らず知らずのうちに早足になっていた。
でも、そんな震えや鼓動は、学校に着くと嘘みたいにピタリと止んでしまった。夜の学校は昼の学校より、生き生きとしているように見えた。耳を澄ますと、校舎の息遣いまでが聞こうそうな気がした。
校舎の扉は開いていた。三年一組の教室には明かりはついていなかった。安心した気持ちと供に、何故か落胆している気持ちもあった。ハルが校門に向かって歩き出そうと振り返ると、そこには早紀が立っていた。
ハルは不思議に驚かなかった。そうじゃなきゃ、みたいな気持ちもあった。家を出た瞬間から何かあるだろう、と感じていた。
早紀の髪の毛が黒いせいだろうか、早紀の体はほとんど暗闇と同化しているように見えた。雨降りの時もそうだった。早紀は何とでも同化できるのかもしれない、とハルは思った。
「かくれんぼだったよね」早紀が言った。早紀はもう自分の声を飾ったりはしていなかった。自分の本当の声で喋っていた。それは例えるなら、人間の声を何倍にも凝縮させたような声だった。不自然に大きく、聞き取りづらかった。
「良いわよ」とハルは言った。自分の声を震えないようにするだけで、精一杯だった。
「そう、じゃあ貴方に鬼をやってもらうわ」と
「それで貴方が隠れるの?」早紀ちゃんと呼びそうになって、あわてて貴方に変えた。
「いや、隠れるのは私じゃないわ。この子よ」と言って早紀はハルに携帯電話を投げて寄越した。
携帯電話からは誰かの声が聞こえた。ハルが携帯電話に耳を当てると、
「もしもし、早紀ちゃん。もう助けて。お願いだから。私、ホントに何でもするからさ」という声が聞こえた。ほとんど泣き叫ぶような声だった。声に聞き覚えはなかった。
「何これ」とハルは言ったが、ほとんど声は出ていなかった。
「あなたの知らない、私の友達よ」と早紀は言った。
「そうじゃなくて」ハルは出来る限りの大声で言った。でもその声は闇に吸い込まれてしまった。もしかしたら、闇は早紀の味方なのかもしれない。
「これ、どういうことよ」とハルは言った。
「だから、かくれんぼよ。貴方はこの声の主を探すのよ。大丈夫。すぐに捕まるわ。動けないようにしてあるから」と言うと、早紀はハルの手から携帯電話をぶん取った。
「警察に連絡したら困るからね」と早紀は言った。
警察、と聞いた瞬間、ハルの頭にある考えが浮かんだ。家に帰れば、電話だってあるし、両親だっている。
ハルは家に急ごうとしたが、体が動かなかった。
「あれ、動かない」動かせないというよりは、体が、脳が、そして自分自身が動こうとしていなかった。
「やっぱり、体は正直ね」と早紀は言った。
「どういうことよ」とハルは早紀の目を見つめながら言った。その時、ハルの心が不意に暖かくなった。まるで昔使っていた物を眺めた時のような気持ちだった。
「だって。貴方と私は一心同体だもの」と早紀は言った。
ハルの唖然としている顔が面白かったのか、早紀は大声で笑い始めた。その声はハルの頭の中に入ってきて何かを掻き乱した。笑い声が夜に響いた。校舎もそれに呼応してガサガサと唸った。
「貴方が彼女を見つけ出せたら言おうかと思っていたんだけど。もう今でも良いかな」と早紀が言った。トリックのネタを発表するマジシャンのように、得意げな顔になっていた。
「私は貴方から生まれたの」と早紀は言った。
ハルは何も言うことが出来なかった、驚いたからではない。その思いが、最初に早紀を見た時から心の片隅にあったからだ。もちろん容姿も、正確も、全く違う。でも、一緒にいるとふとそういう思いに駆られることがあった。
「貴方のマイナスの部分から、私は生まれたの。だから、私が許さなければ、貴方は動く事も出来ないわ。今や、私のほうが本体みたいなものだからね」と早紀は言った。早紀の言っていることは本当だと、ハルは本能で分かっていた。
「どうすれば良いの?」とハルは言った。
「あの子は森の中にいるわ。そういう意味では、ここには森が一杯あって助かったわ」
ハルは頭の中でここら辺の森の場所を必死に思い出そうとしていた。
「一つだけ言っとくけど。これはゲームだから。貴方が勝ったら、私は消えるけど、私が勝ったら、貴方には消えてもらうわ。良いでしょ。タイムリミットは夜明けまでよ」と早紀は言った。
「良いわ」とハルは言い、校門を出ていった。
そうしてかくれんぼが始まった。
ふと、それを見上げると夜が一段と低くなっていた。月がいつもの無表情な顔でハルを睨んでいた。息が上がり、足が回らなくなってきた。どれくらい走っていただろう。ハルはついに歩き出してしまった。
早紀は「あの子」は森にいる、と言ったがこの辺には森なんていくらでもある。どうしよう、と考えているハルにある考えが浮かんだ。早紀は私と一心同体。なら、私が絶対に見つけられないと思う森の場所は……。
ハルは走り出した。子供の頃、自分自身がよくかくれんぼに使った場所だ。奥まった場所にあり、そこに隠れれば絶対に見つからなかった。でも、よく迷子になってママに怒られたっけ。ママの事を思い出すと、不意に涙がこぼれそうになった。自分はおもったより、弱っている、とハルは感じた。
急がなきゃ、と走る足に力を込めた。
森の入り口に立つと、体が強張ってくるのをハルは感じた。子供の頃は感じなかった種類の恐怖がハルを襲った。子供の頃は無邪気だったから、この恐怖を感じなかったのだろう、とハルは思った。でも今は違う。この森は私を受け入れてはくれない。
一つ深く深呼吸をしてから、森の中にゆっくりと入っていった。
森の中にはうっすらと歩道のようなものがあった。故意に作られたものではなく、子供がよく通るので、自然と出来たものだろう。
森はひっそりとしていた。何の音も聞こえてこなかった。でも、ハルは分かっていた。これは森の仮の姿だ、という事に。森全体が「静寂」という題でオーケストラでも弾いているのだろう、と思わせるほど、不自然に静かだった。私がちょっとでも、不快な音でもさせば、すぐに飲み込まれてしまうだろう。
今までかいた事の無い汗をかいていた。出来る事なら、しゃがみ込んでしまいたい、とハルは思った。目を閉じ、耳を塞ぎ、太陽がこの世界を照らすまで、じっとしていたいと思った。
実際にハルは膝をついていた。風が吹きざわざわと森が鳴いた。森がだんだんと自分に迫ってくるような気がした。いや、気のせいじゃない、確かに森は近づいている。その時、風に乗って「あの子」の声が聞こえたように感じた。
ハルは弾かれた様に、立ちあがり、そのけの方向に急いだ。道から外れたためか。木の枝が顔に当たり、痛かった。無我夢中で走り抜けると、少し開かれた場所に出た。そこには足から血を流している少女がいた。
「大丈夫?」と言いハルは少女に駆け寄った。
「いや!」と少女は言い、ハルを押しのけようとした。ハルと同年代か少し下ぐらいの少女だった。
「大丈夫、私はあなたを助けに来たの」とハルが言い、少女を強く抱きしめると、少女はやっと安心したようだった。
しばらくの間、ハルは少女を抱きしめつづけていた。心なしか、森も私達を包み込んでくれている気がした。先程までの恐怖は消え、母に抱きしめられているかのような安堵感が胸の中に広がった。
「森には気を付けばければいけないぞ。よく表情を変えるからな。そのい表情の変化を見逃してはいけな。」ハルが初めてこの森で迷子になった時、ハルの父が言った台詞だ。
その言葉を思い出すと、なぜがハルの目から涙がこぼれた。ハルは涙を拭わなかった。拭くのがもったいないと思ったからだった。少女はいつのまにかハルの胸の中で眠りについていた。
もう大丈夫だ。とハルは思った。このまま朝になるのを待って、大人を呼びに行けば良い。夜の森を二人だけで歩き回るのは危険過ぎる。少女を寝かせ、何気なくハルが立ちあがると、そこに早紀がいた。
早紀は疲れ切ったような顔をしていた。体が重いらしく、木の寄りかかっていた。
「貴方の勝ちね」と早紀が言った。悔しがっているようには見えなかった。
ハルは黙っていた。
「でも、最後の仕上げが残っているわ」と早紀が言い、ハルに何かを投げて寄越した。
それは鈍く光を放つナイフだった。
ハルは驚いて早紀を見た。
「それで、私を殺すの。それで、全部元通りになるわ。大丈夫、殺人犯にはならないわ。それは貴方にも分かるでしょう」と早紀は言った。
その事はハルにも分かっていた。これは早紀を殺すのではなく、私が一人に戻るために儀式のようなものだ。それは分かっていたが…
「出来ない」とハルは言った。彼女を生み出したのは私の弱い心だ。それをまた自分の都合で消すなんて出来ない、とハルは思った。
「分かったわ」と早紀が言った。
「貴方は怖いのよ。また元の一人に戻るのが。弱い心を押さえつける自信がないんでしょ。だから、私に弱い部分を押し付けようとしている」
「違う」とハルは叫ぶようにして言った。でも何が違うのかは、ハルには説明できなかった。
早紀はあきれたように、ため息をついた。
「良いわ。貴方がそうしたいならね。でもいつか必ず後悔するわ。その時はこの森に来なさい。私の命を奪いにね」と早紀は言い。森の闇の中に消えていった。
ハルが早紀の消える瞬間を目にしたと思うと、急に意識が抜けていった。
目が覚めた時、ハルは病院のベッドの上いた。それからの事はハル自身あまり、良く覚えていなかった。どうやら、子供同士のかくれんぼの延長線上の事件だと思われていたようだった。
ハルも両親からとても、怒られたが、不思議と何も感じなかった。くるくると良く回る両親の口をぼうと見つめていた。
警察は早紀を懸命に捜したらしいが、結局見つからなかった。
そうして時が流れた。
「その後の私は何も感じなくなったわ。全くの無感覚になったの」とハルは言った。
辺りは静かだった。まるで世界中がハルの話を聞いているんじゃないか、と思うほどだった。バスケットの中でいくつかのサンドイッチが寂しそうに並んでいた。
「無感覚って?」と僕は聞いた。少なくとも、僕が見た限りでは、ハルは笑ったり、怒ったりしていた。
「何も感じなくなったって事」ハルは簡潔で分かりやすく言った。
「何も感じない? 味覚も、触覚も?」と僕は聞いた。本当に何も感じないのであれば、それは精神的なものではなく、もはや病気じゃないのか。
「うーんと,どう言ったら良いかしら」とハルは言い、サンドイッチを一つ、手に取った。
「例えば、このサンドイッチを食べるとするでしょ」とハルは言い、実際、一口かじって見せた。
「あなたはこのサンドイッチを食べた時、どう感じた?」
「えっと、普通に美味しいなと感じたな、上手くは言えないけどね」
「普通はそうよね。でも私は違うの。極端に言えば、このサンドイッチは美味しいんだろうなって思うだけなの」
何だか難しくて良く分からないが、脳がそう判断するだけで、味覚は本当には機能していないって事か。
「それはどんな事にも当てはまるの?」と僕は聞いた。
「うん、まあ、大体そうなるわね」ハルは何てことは無い、という風に言った。
だとすれば、と僕は思った。ハルはその事件以来、ずっと仮面を被って生きてきたというのか。何も可笑しくなくても、友達が笑っている時には笑い、友達が泣いている時には泣いてきたのか。僕に見せた笑顔も作ったものなのか。そう思うと僕はたまらなく悲しくなった。
ハルが「自分は不完全な人間だ」と言った理由が初めて分かった気がした。ハルにとってこの世界は不完全以外の何ものでもないのだろう。
「ねえ、そんな悲しい顔しないでよ」とハルが言った。ハルも泣き出しそうな顔をしていた。いや、泣き出しそうな顔を作っていると言った方が良いだろうか。
「ごめん」と僕は言った。
「でも、君はそんな風にしてずっと生きてきたの? それは辛くなかった?」と僕は続けた。
「辛いという感情も私には無いもの。両親は私を何回も病院に入れたけど、全然治らなかったわ。当たり前よね、全ての原因は早紀、いや、私にあるんだもん」とハルはいった。
「周りの人達は何かしてくれなかったの?」と僕は聞いた。ハル昔から仮面をつけていたわけではないだろう。
「初め、周りの人達は私を心配してくれたわ。でも、それはだんだん恐怖に変わっていった。皆得体の知れない者を見るような目で私を見るんだもの。私はその顔を見るのが嫌だったわ。理屈じゃないの、その顔を見ると気持ち悪くなった。だから、私は普通の人間の振りをする事にした。周りの人達の真似をすれば簡単だったわ。それで両親も安心してくれた」ハルは一気に喋った。そんなハルの顔には何も浮かんでいなかった。普通の人間に対する、怒りも、悲しみも。感じるとすれば、いくらかの諦観だけだった。
「そうなんだ」と僕は言った。僕がハルに懸けてあげられる言葉は何もなかった。少なくともハルは慰めの言葉なんて必要としていなかった。
「それで、僕は何をすれば良いの」と僕は言った。
ハルが僕の目を見つめた。
ハルの瞳はその複雑な輝きを失っていなかった。僕はその瞳に引き込まれそうになった。ハルの人間味が唯一残っているとすれば、それは瞳だった。その瞳はハル以上に何かを切実に求めていた。僕はそれを素直に受け止める事が出来た。
「手伝ってくれるの?」とハルが言った。
「うん」と僕は言った。ハルが求めているのは、無責任な慰めの言葉ではなく、曲がらない意思であり、迅速な行動力だ。
「何で?」とハルが聞いた。
「何で、初対面の私の話を信じてくれて、それに手伝ってさえくれるの?」ハルは本気で不思議がっているように見えた。
「君が好きだからだよ」と僕は言った。自分の顔が赤くなっていくのを感じた。何を言ってるんだ、俺は。ドラマじゃあるまいし。
「こんな事言っても、ピンと来ないかも知れないけど。好きになっちゃったんだ」
「そう、ありがとう。嬉しいわ」とハルは言って笑った。心の底から笑っているように、僕の目には映った。
「じゃあ、明日の昼一時に、ここに来てくれる」とハルは言い、僕に簡単な地図を渡した。地図には駅の住所と、その駅までの道のりが書いてあった。
「駅、そこからどこに行くの?」と僕は聞いた。
「もう一人の私がいる森よ。私は引っ越してきたから。あの町まで戻らないと」
「そう、じゃあ。明日はよろしく」と僕は言った。
「こちらこそ」とハルは言い、帰り支度をはじめた。
「必要なものは私が持ってくるから、君は手ぶらで良いからね」と言い、役場の出口に向かってハルは歩き出した。
僕は遠ざかるハルの背中をじっと見つめていたが、ふと疑問に思った事を背中に投げかけてみた。
「ねえ、どうして、ハルは僕に話しかけたの」
ハルがこちらを振り返り、少し迷ってから
「君の読んでいた本。私が昔、感動した本なの」と言って、出て行った。
本か、と一人でつぶやき、その本の表紙をなでた。
やれやれ、と僕はため息をついた。なんだか面白くなってきたじゃないか。
登山用のリュックに必要な物を詰めて、家を出た。家族には友達と旅行に行く、と言っておいた。いつ帰ってくるかは分からない、とも。
ハルが書いてくれた地図に従って、駅まで歩いた。太陽の光が首筋を焼いていた。耳を澄ますと、ジリジリと太陽が地面を焼く音が聞こえそうな気がした。途中でコンビニに入り、昼食を買った。サンドイッチを買おうとしたが、やめた。あのサンドイッチよりは美味しくないだろう。
すれ違う人々は皆、笑ったり、怒ったり、友達と喋ったり、犬とじゃれ合ったりしていた。無表情の人間というものは一人もいなかった。みんな、それなりにこの世界を楽しんでいるようだった。
駅に着くと、ホームのベンチに座って、昼食を食べた。何て事のない弁当だったが、それなりに美味しかった。時計を見ると一時前だった。辺りを見まわしてもハルの姿は無かった。ハルの性格からして、時間に遅れるというのは考えられなかった。
まあ、後数分あるしな、と思い僕は本を開いた。昨日、図書館から借りてきた本で、ハルが僕に話しかけるきっかけとなった本だ。
本の題名は「コーヒーを飲まないか?」。不眠症に陥った男があらゆる種類の幻覚を見る話しだ。その幻覚の中、男はこの人生の犯罪を経験する。殺人、窃盗、麻薬、強姦、その他のあらゆる犯罪だ。結局、この男には何の救いをもたらされない。精神的な意味でも、肉体的な意味でも。
読んでいる本に影が落ちた。顔を上げるとハルが立っていた。時計を見ると一時ちょうどだった。
「時間ぴったりだね」と僕が言うと、ハルは黙って笑い、僕の隣に座った。
「ねえ、電車はいつ来るの?」と僕が聞くと
「まだ来ないわよ」とハルは悪戯っぽく笑って見せた。
「君と話したかったから」と付け加えた。
僕は赤くなった。僕はすぐに赤くなってしまうのだ。これはもはや、性格の問題ではなく、体質の問題だと自分は思っている。
「その本、面白い?」とハルが言った。
「全然」と僕は答えた。
「だよね」
「うん」
会話終了を告げるかのように、ハルは持ってきた帽子を被った。アメリカの子供が被るような帽子だったが、ハルには良く似合っていた。くしゃくしゃの髪は後ろで一本に止められていた。指輪の形をした髪留めで太陽の光が当たる度にキラキラと光った。それと似たタイプの指輪もしていた。
僕がハルの顔を見詰めていたからだろうか、ハルが
「何を見てるの?」と言った。
「別に」と僕は言った。
はあ、とわざとらしく、ハルがため息をついた。
「そういう時は『君を見ていたんだ』ぐらい、言わないと」
「普通は言わないと思うよ。そんな事」
「そうかしら、私の友達は良く言われるって言ってたけど」
何の変哲も無い会話が今の僕には、新鮮で、楽しかった。ハルの言葉には表情がない。そこには嘘さえも潜り込む余地はないのだ。何気ない会話なんて、今まで僕はした事が無かった。いつもそこには、「これ以上踏み込まれないように」する自分がいた。そのせいか、いつも友達は離れていった。そして親しく会話を交わす友達が出来ないまま、今まで生きてきたのだ。
その点では、ハルと似ているかもしれない、と僕は思った。ハルは今まで「普通の人」の仮面を付けて生きてきたのだ。親友がいたとしても、ハルは「親友」の振りをしていたに過ぎない。
そう思うと、横で髪の毛をいじっているハルがたまらなくいとおしくなった。
僕はハルの手にそっと自分の手のひらを置いた。ハルは重なった僕の手を見た後、ゆっくりと僕の顔に視線を向けた。ハルの瞳は、複雑な模様を絶え間無くその水面に映していた。
ハルは何も無かったように前を向いた。僕も赤くなった自分の顔を見られたくなかったので、前を向いた。手は重ねられたままだった。
ハルの手は暖かかった。どんなに顔に表情がなかろうと、どんなに言葉に感情が込められてなかろうと、どれほど何も感じないとしても、ハルの手には血が流れていた。僕はその血の流れを感じることが出来た。
「ハルの手は暖かいね」と僕は言った。
「そうかしら、普通だと思うけど」
「うん、普通だよ。まるで『普通の人』みたいだ」
僕がそう言うと、ハルはにっこりと笑顔を作ってくれた。それは周りの大人を安心させる為のものでもなければ、親友の振りをする為のものでもなかった。その笑顔は他の誰でもない、僕だけに向けられたものだった、たとえ、その笑顔が作られたものだとしても、心の底からのものではないとしても、僕は嬉しかった。
「ありがとう」と僕が言うと、ハルは小さく頷いた。
手を重ね合ったまま、僕達は黙っていた。沈黙は僕にとっても、おそらくハルにとっても、心地良いものだった。こんな種類の沈黙もあるんだ、と僕は思った。たぶん、僕らは、表面上、いくら他人と言葉を交わしていたにせよ、心の中では沈黙をしていたんだと思った。その沈黙は僕達をどこにも連れていかなかった。たさ、自分の中に深く、狭く、沈んでいくだけだった。
肩に手を置かれて、見上げるとハルが立っていた。何時の間にか僕は目を瞑っていたらしい。太陽の光のせいか、ハルの顔が見えなかった。
「電車、来たよ」とハルが言った。
うん、と僕は言い、電車に乗り込んだ。電車の中は思ったより混んでいた。海に行くのだろう、若い男女や、昼から出勤するのだろう、サラリーマン、色々な人がいた。でも、座れる程度だったので、僕とハルは微妙に離れて座った。
電車に揺られながら、僕達は黙っていた。僕は図書館で借りてきた本を読み、ハルは流れる風景を見ていた。他の乗車客の話し声はなぜか聞き取りづらかった。まるで、僕達と彼らでは、住む世界が違うようだった。
僕は目を閉じて、彼らの生活を想像した。若い男女は海で遊ぶのだろう。海を泳ぎ、肌を焼き、海の家でやきそばでも食べるのだろう。その後、一夜の愛なんかを語り合うのかもしれない。サラリーマンは上司から呼び出されたのだろうか。これから、書類かなんかを整理するのかもしれない。もしかしたら、深夜まで残業するのかもしれない。
そんな事を僕は取り止めも無く、延々と考えていた。いつしか、僕は彼らの世界に入りこもうとしていた。そこには僕が、もしくは、ハルが失ってしまった色々なものがあった。気楽な笑み、冗談の怒り、親密な感情。周りの空気がねっとりとしたものに変わっていった。僕が望むなら彼らの世界に入り得たかもしれない。でも、僕は怖かった。失ってきたものと一人で対面する事が怖かった。
僕は目を開いた。周りの空気は元に戻っていた。僕は汗をかいていた。不快じゃないけど、妙に体の感覚に残る汗だった。
「大丈夫?」ハルが心配そうにこちらを見ていた。
「何でも無いよ。大丈夫」と僕は言った。でも、僕はハルとは違う。僕の顔は「大丈夫じゃない」とうことをはっきりと示していただろう。ハルがまだこちらを見ていたので、それを振り払うように、僕は流れる風景に目を遣った。
外に広がる風景はほとんど僕の目に止まらなかった。幾何学的に並んだ家、こじんまりと広がる森、小さな田んぼ。それらの風景は何の、歴史的、また地域的特色をあらわしていなかった。そのまま切り取ったら、「電車の中から見える風景」として美術館に飾れそうな程だった。
僕は窓に映っている自分の顔を見ていた。自分の顔をじっと見つめるというのは奇妙な行為だった。見慣れているはずなのに、じっと見ていると、これは自分の顔じゃないという思いがだんだんと強くなっていった。窓ガラスに映る自分の顔が溶けだし、誰か別の顔になるのではないかという思いもあった。僕は後ろを振り向いてみたが、そこには誰もいなかった。
僕は首を振った。これから起こるだろう事を思い、いくらか緊張していたのかもしれない。僕はまた、本を開き、僕達がいる世界でも、彼かがいる世界でもなく、不眠症の男がいる世界に入っていった。その世界では誰も救いなど求めていなかった。
電車が駅に着き、何人かの人が降り、何人かの人が乗り込んだ。どっちにしても、見分けがつかないような顔をした人々だった。
「後どれくらいなの?」と僕は聞いた。何でも良いから、ハルと話していたい気分だった。
「うん、もうちょっとかな」とハルが言い、外に目を向けた。僕もハルと同じ様に外に目を向けたが、特別変わった所はなさそうだった。ハルの目には、感慨のようなものは一切映っていなかった。
「どれくらいこっちの方には来てないの?」と僕は聞いた。
「あの事件があって以来よ。両親が気を遣って、引っ越してくれたの」とハルは言った。「気を遣った」という表現に違和感を感じないでもなかった。
「じゃあ、九年ぶりぐらいかな」と僕は言った。
「何で分かったの?」とハルは言った。
「私、自分の年齢、言わなかったと思うけど」
「そういえばそうだね。でも何となく自分と同じかなあと思ったんだ」実際、会った瞬間からそう感じていた。そして今までハルは僕と同じ年齢だと確信していた。僕は自分の知らない間にそれほど、自分とハルを重ね合わせていたのだろうか。
「でも、正解だわ。私も一八歳だもの」とハルは言った。
「そうだね。不思議だな」
僕とハル。一八歳の少年と少女が自分探しの旅に出る。なんだか、二流映画のストーリーみたいだなと僕は思った。でも、そう思うと、少しだけ気が楽になった。
「懐かしい?」と僕は聞いた。言ってから、しまった、と思った。俺は何を言っているんだ。ハルにはおそらく、懐かしいという感情も無いだろう。
「懐かしくはない。でも……」
「でも?」と僕は先を促す。ハルの声が心なしか震えている気がした。
「怖い。怖いの。あの森にもう一人の私がいると思うと怖いの。どんどん怖くなっていく。
」ハルは僕の腕をぎゅっと握り締めた。
僕はハルを抱きしめた。周りから色々なざわめきが聞こえた。
「キャー、アレナニヤッテンノ」と若い女性。
「ホントニハズカシイワ、コンナトコロデ」とおばさん。
「マッタク、サイキンノワカモノハ」とサラリーマン。
見たいんなら、見れば良い、何かを言いたいなら、言えば良い、と僕は思った。お前等に何が分かる。笑って、泣いて、怒って、傷つく事の出来るお前等に何がわかる。ハルは傷付く事も出来ないんだ。傷つかないから、治らない。ハルの過去に出来た傷は治らないんだ。
僕はハルをいつまでも抱きしめていた。ハルは僕の腕の中で小さな子供のように、丸くなっていた。
どれくらいそうしていただろう。やがて周りのざわめきは消え、静寂が訪れた。まるで世界にいるのは僕達二人だけのようだった。僕が更に強く、ハルを抱きしめると、頭の中でズッという音がした。
空気の質が変わった気がした。無音の液体に包まれて行くような感触があった。そこは熱くも、冷たくもなかった。ただ、少し息苦しさを覚えた。喉がつまり、息が出来なかった。抱き締めていたはずのハルの感触を感じなくなっていた。
「ハル」僕は叫んだ。すると、視界が開け、新しい世界が現れた。
そこは森だった。ハルが言っていた森だという事が肌で分かった。靴の裏から湿った地面の様子が伝わってきた。空を見上げた。森がまるで意地悪するように、青空を隠していた。いや、この世界では青空なんてものは存在していないのかもしれない。
「ハル」と僕はもう一度、強く叫んだ。けど、僕の声はあまり、響かなかった。森が僕の声を吸収したのかもしれない。僕の声の代わりなのだろうか、森がざわめきはじめ、あちこちで鳥や動物が鳴く声が聞こえた。
僕はハルの名前を叫びながら、森を走り回った。でも、いくらたっても進んでいる気にはならなかった。木のツタが僕の体を傷つけ、茂った葉の緑は方向感覚を狂わせ、森のかもし出す空気は僕の脳を犯していった。
僕はしゃがみ込んでいた。俺は何をやってるんだ、ハルを手伝うんじゃなかったのか。
後ろから僕の名前を呼ぶ声がした。
「ハル」と僕が言い、後ろを振り向いた。
そこにいたのはハル……じゃない。早紀だ。
「あれ、ハルはどうしたのかしら」と早紀は言った。首筋を舐めるような甘ったるい声だった。ハルの言うとおり、天使のように綺麗だった。早紀が動くたびに、世界が彼女に微笑むかのようだった。森は明らかに彼女の味方をしていた。
「ハルをどこにやった」僕は声を振り絞るようにして言った。
「ここ」と早紀が言い、自分の心臓の部分を指した。
僕は完全に血が頭に昇っていた。僕は早紀に飛び掛った。でも、飛び掛った先に、彼女はいなく、僕は地面に倒れこんだ。
ハルはもういなくなってしまったのか。僕はハルを守れなかったのか。
「殺して」どこからかハルの声がした気がした。僕は何故か空を見上げていた。茂った森に一箇所だけ穴が空いており、そこから一筋の光がおちていた。僕はそれを全身に浴びていた。そこは暖かかった。ハルの手に触れた時と同じ暖かさだった。僕は光の海を泳いでいるかのような気分だった。
僕はゆっくりと頷いた。
「僕は君を殺すよ」僕はゆっくりと、この世界に宣言するように言った。
森は僕の宣言を受け入れたかのように、元のざわめきを取り戻していった。
早紀は、いや、ハルはゆっくりと頷いた。
僕はポケットからナイフを取り戻した。持って来たわけではないが、ポケットの中にナイフがあることは分かっていた。僕は勢い良く、ハルに向かって駆け出した。両手でしっかりとナイフを掴んで。
ズブッという音がしてナイフがハルの体に入りこんでいった。暖かい血がそこから流れ始めた。暖かいな、ハルの血は、なんて場違いな事を僕は考えていた。
「ありがとう」ハルが切れ切れの声で言い、笑った。それは本当の、ハル自身の笑いだった。作ったものではなく、心の底からの笑みだった。僕にはそれが痛いくらいに分かった。そして僕は気付いていた。この笑顔がハルの最後の微笑みだという事に。
僕はハルからナイフを抜いた。血が勢い良く飛び出て、僕にかかった。
「ハル、ありがとう」と僕は言った。でも、もうその時にはハルはいなかった。
森が僕を追い出そうとしていた。世界が揺らぎ、僕は元の世界に押し返された。暗闇がやってきた。でも、それは僕が慣れ親しんだ暗闇とは少し違った種類のものだった。
気がついた時、僕は一人で電車に乗っていた。僕以外の人々は全くいなかった。僕は横を見た。ハルが座っていた場所だった。ハルはいなかった。
電車に揺れながら、僕は目を閉じた。
大丈夫だよ、ハル。君は一人じゃない。僕が今すぐ行くからね。
僕は目を閉じ、深く、沈んでいった。