5 余韻
午後3時頃になって、ギャラリーの中は少し人が途絶えた。
「ごめんねー、放ったらかしみたいにしちゃって。」
萌百合さんは3人分のジュースをお盆に乗せて、孝之たちのテーブルにやってきた。
「アボガドジュース、勝手に頼んじゃったけど大丈夫だった?」
「ボクは好きだよ。」
「俺も大丈夫だけど、これ・・・?」
「あ、わたしの奢りだから。絵、いっぱい売れたし。」
ズゥゥ————ン・・・。
孝之の頭に石が乗った。
萌百合さんは全然気がついてないようで、それが可笑しいのか環が笑いを噛み殺している。
「あ、その・・・。急に来なくなったでしょ? 予備校・・・。」
「お金なくなっちゃったんだ。」
何の屈託もなく笑顔でそう言った萌百合さんは、やっぱりあの頃とは違っている。
のびのびとしているというか、自然体というか——。
「ねえ、芸大って、どういうこと教えてもらえるの? わたし、ちゃんと受け直した方がいいかな・・・?」
「萌百合さんは、もう必要ないんじゃない。だいたい芸大来たってなんにも教えてはくれないよ?」
「なんにも?」
「そう。なんにも教えないんだって。」
環がケロッとした顔で、教授の受け売りを言う。
「草の生えてるところまでは連れて行くけど、食べるかどうかは本人次第だって。」
「草の生えてるところ? ——って、あのおじさんの農園みたいな?」
「農園?」
「?」
孝之と環は並木道の中を駅に向かって歩いている。
ツクツクボウシの声が、頭の上から降り注いでくる。
こんなに暑くても、季節はやっぱり移り変わっているんだな——。
「きれいだったね。」
環が、ほう、と息を吐くようにして言った。
「うん。」
「よかったよね。」
「うん。」
「彼女がこんなふうに個展を開くことができてさ。」
ああ、そっちのことか。そうだな。と孝之も今は素直にそう思う。
あの才能が、途中で潰えなくて——。
どこかにいた嫉妬心も、絵を見た途端に雲散霧消してしまい、ただこの美しい世界に感動し、それを生み出したのがあの萌百合さんだったことが嬉しいと思えた。
それでも、彼女と自分を比較してしまえば、自分がはるかに後方にいることを痛感せざるを得ず、情けない気持ちになってしまう。
これを、劣等感と呼べばいいのだろうか。
あのあと萌百合さんは、予備校を辞めてからのことや、宗教2世として苦しんだことをあっさりと語ってくれた。
その声調子は、まるでその辺の世間話でもするようにサバサバしていて、その話が彼女の中ではすでに過去のものとして咀嚼できていることを物語っていた。
それにしても、なんという道のりを・・・。と孝之は思う。
よくぞここへたどり着いた——と思う。
俺の悩みなんて、萌百合さんのそれに比べたら・・・おもちゃみたいなもんだよな。
萌百合さんは言っていた。
いちばん初めのカードは、わたしがこの世界に生まれて、ここに生きてることなんだ。これこそが奇跡なんだ。——と。
「そしたらもう、描くのが楽しくて楽しくて仕方なくなっちゃって。」
それが「天才」ってやつなんだろう。と孝之は思う。
親に応援されて、何不自由なく予備校に行かせてもらって・・・。ただ他人と競争することしか考えてなかった孝之とは、創作の根っこの深さが違う。
俺は・・・、学ばなければならないことが山のようにある・・・。
萌百合さんのような天才があんな環境で足掻き続けて手に入れたものを、俺なんかが一朝一夕に手に入れられるはずがない。
天才ではない俺は・・・、そのはるかに遠い道のりを地道に足掻き続けるしかないんだろうな。
それでも・・・
描くのが楽しい——ところだけは、きっと同じだ。
環は今日、ギャラリーを出てからはあまりふざけてこない。
歩きながら、何かをずっと考えているようだった。
「ボクはもっと、自分らしさを正直に出す訓練もするべきかもなぁ。」
「え?」
出してないの? それで・・・?
「なあに? 女は後ろ姿にも気を抜かないものなんだよ?」
一部わからない部分のある方は、『いちばん初めのカード』も読んでみてくださいね。
前半、かなりキツいですけど。ちゃんとハピエンですから。
(コマーシャルでした。。(^^)v )