4 魔術師
それはもう、色彩の奔流と言ってよかった。
これほどまでに美しい色というものがあるのか。
これほどまでに豊かな色というものがあるのか。
これほどまでに繊細な色彩というものが、存在するのか——。
それらは普通の目には見えないような色彩で描かれていながら、それでいて、まごうことなく夜明けの空であり、道端のアスファルトの割れ目に生えた草であった。
萌百合の目には、世界はこんなふうに見えているのか・・・。
描かれた対象に対する、いや、その存在そのものに対する無限の愛情のようなものが、波が打ち寄せるようにして観ている孝之の胸を叩いてゆく。
知らない間に、孝之の頬に雫がつたっていた。
慌てて手で隠すようにして拭って隣を見ると、環が隠そうともせずに頬に涙をつたわせていた。
こんな環の表情を、孝之は初めて見る。
いつも以上に美しい。
「なんか忙しそうで、話しかけるきっかけがつかめないね。」
喫茶の方に座って注文したドリンクを待つ間、氷の浮いた水を飲みながら環が言った。
「でも来てよかった。」
こんなふうに潤んだ環の瞳って、本当にどぎまぎするよ——と孝之は思う。
「人間ってふつうさぁ、陰ってもんがあるよね? こんな光ばかりの、陰を感じさせない絵って描けるんだね。」
環がため息をつくようにして言う。
「俺には・・・」
と孝之は言う。
「光も陰も、一緒に溶かし込んでしまったように見えたな・・・。溶かして、色彩に変えてしまったような・・・」
「あ! それ!」
環が目を見開いて孝之を指差した。
「すっごい言えてるかも! ビビキ、鋭いねぇ。さすが現役。」
「からかうなよ。」
しばらくすると、萌百合静香が孝之たちのテーブルの方に近づいてきた。
「ごめんねぇ、響クン。目の端には捉えてたんだけど、あれこれ忙しくて。来てくれたんだぁ。杏奈には案内送ったんだけど、響クン住所わかんなくて。今、東京にいるの? ということは、もしかして?」
「あ・・・うん。」
「そ。芸大現役合格。」
環が指先でつんと孝之の頭をつつく。
「すごーい! やっぱり、響クンすごぉーい!」
予備校の頃みたいに目を輝かせて見られて、孝之は少し恥ずかしくなった。
おまえの方がすごいじゃん。
絵にはほとんど売却済みの赤いシールが貼ってあったし。
「こちらの美人さんは、彼女さん?」
孝之は手のひらをふりふりして否定する。
と同時に、翳りもなく萌百合さんにそう言われたことに、ちょっとショックを受けている自分がいることにも気がついた。
「紹介するよ。茂則環・・・」
しばし目を宙に彷徨わせてから
「・・・くん。芸大の同期生。他のやつらも誘ったんだけど、上手く都合が合わなくて。別の日に来るよ。」
「くん?」
孝之がちらと見ると、環がにこっと笑って首を傾げる。
「心は女性・・・だけど、体はまだ半分男性で・・・」
孝之はとりあえずそんなふうに説明する。
「手術するのが怖いの。」
「だよねー。病気でもないのに。わかるわ。」
萌百合さんは、さらっとそう返す。
「驚かないんだな?」
「なんで? 自然界では珍しくないよ。オスになったりメスになったりする生き物は。」
少々ズレた反応するところは相変わらずだけど、でも、これは環には嬉しい反応だろうな。
と、孝之は思う。
案の定、環は立ち上がって片手を差し出した。
「萌百合さんとは話が合いそう。お友だちになってくれますかぁ?」
「あ、はい! こちらこそ、よろしくお願いします!」
萌百合さんは、すぐに嬉しそうに環の手を握り返した。
「よかったらゆっくりしていってください。響クンも——。お客さん空いたらまた話しに来るから。芸大のこといろいろ教えて。」
そう言って、萌百合さんはまたギャラリーの方に走っていった。
「いい子だねぇ——。あの絵そのものみたい。」
「変わったよ。予備校の頃は、もっと、なんというか陰惨とさえ言えるような陰みたいなものを引きずってたんだけど・・・。それを無くしたわけじゃなさそうだけど、それを溶かしてステージが1つ上がっちゃった、というか・・・」
「ふう〜ん。なかなか深く見てるねぇ。」
と環がいたずらっぽい目で孝之を見る。
「ビビキさあ。萌百合さんに気があるだろ?」
「は? な・・・な・・・なっ・・・」
「女のカンを舐めてはいかんぜよ?」
坂本龍馬か、おまえは——。