お月さまと猫
わたしはエルー。茶トラのエルー。
年齢?そんなもの、数えてないわ。
ずっとずぅっと、ひとりで生きてきたもの。
段ボールに、ぼろぼろのタオルが一枚。
ほんの一握りの鰹節と、赤い首輪が一本きり。
やぁね、赤ん坊猫が、鰹節なんて食べられる訳ないじゃないの。ため息が出ちゃうわ。
わたし、人間、嫌いなの。
勝手に愛して、勝手に飽きて、勝手に捨てて。
わたしがどんなに「大好きよ」と鳴いても、こんな寒空の中に放り出しちゃうのよ。
酷いものよね!
だから、差し伸べられた手は怖いの。
また、叩かれるのじゃないか
また、捨てられるのじゃないかって…
だからわたし、何度も引っ掻いてやったわ!
噛みついて、引っ掻いて、唸ってみせたわ!
「あんたもどうせ同じでしょ!」
それでも、この人間はおかしいったらないわ。
どんなに唸っても、引っ掻いても、わたしを抱き上げて、優しくするの。
しわくちゃの手で、優しく頭を撫でるの。
そして、わたしの入っていた段ボールを見下ろして、なにか言いたげな顔をしてたわ。
なにやら眩しくて、目がチカチカするところに連れてこられて、体を触られたりしたけど、野蛮な犬に追いかけまわされた事に比べたら、大した事無いわ!
わたし、弱い猫じゃないの!
そんな風に鼻息を荒くするわたしを見て、この人間は優しい顔で笑うの。
ぼろぼろの赤い首輪を持ちながら、名前はエルーです、と微笑みながら。
ねぇ
わたし、弱い猫じゃないのよ。
あれから、何年たったかわからないわ。
しわくちゃだった手が、いつの間にか、もっとしわくちゃになって。
サバトラ猫みたいな髪が、すっかり白猫。
優しげな目が、日に日に細くなっていった。
わたしは赤ん坊ではなくなったけど、今はあんたの方が寝てばかりで赤ん坊みたいじゃない!
ねぇ
わたし、弱い猫じゃないのよ。信じて。
人間の寿命ってものが、よくわからないけど。
もうすぐ居なくなるのが分かってしまう。
わたしのおかあさんも、そうだったから。
でも、ここで寂しいよ、とか言ってはいけない。
わたしは猫。気高い猫なのよ。
どれだけ涙が落ちてきても、掠れて声が出なくても。
わたし、弱い猫じゃないの…
おかあさんに聞いたことがあるわ。
みんな、死んだらどこにいくの?
皆、お月さまに行くのよ。
どうして、お月さまにいくの?
お月さまから、皆を見守ってくれるのよ。
あんたも見守ってくれるんでしょ?
ぼろぼろの赤い首輪。
とうとう捨てなかったわね。
前の人間の事なんて、気にしなければいいのに…
エルーなんて名前、捨てても良かったのに。
首輪に書いてあるなら、お前さんはエルーって名前だ。
素敵な名前じゃないか。
ほらエルー、こっちにおいでエルー。
あんたが嬉しそうに呼ぶせいで、この名前が好きになっちゃったじゃないのよ!
ねぇ、もう一度呼んでよ…
わたしを抱き上げて、エルーって呼んでよ…
あんたがお月さまに行ってから、姪っ子だかの家に引き取られたけど、退屈だわ。
新しい名前をつけるってんで、色々と呼ばれたけど、振り向いてもあげないの。
わたし、弱い猫じゃないもの。
あとわたし、もう名前があるの。
大好きな人間から貰ったの。
いい?
一度しか教えないわよ。
わたしはエルー、茶トラのエルー。
残していく方も、残される方も、心にその人やその子の形の穴が開くものです。