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淑女教育

 ダニエーレ殿下との婚約が内定したときから、アンジェリカは王宮の離宮の一角に住まいを移し、そこで淑女教育を受けておりました。


 当初、その教育係は先代の女官長が担っておられました。通常、貴族の娘の淑女教育は専門の家庭教師を雇います。けれど、生まれたときから貴族の作法に慣れている貴族の娘と違って、アンジェリカには全く下地がございません。ですから、エルメーテ殿下を通してダニエーレ殿下から相談を受けたわたくしは、前女官長を推薦いたしました。


 前女官長はその役目と功績ゆえにご自身が子爵に叙爵されておられますが、元は平民の出身でした。幼いともいえる若いころに下働きとして王城に仕え、先々代の女官長に見出されて教育を受け、女官長にまで登り詰めた女性立志伝の主人公のような方です。


 平民だったがゆえに様々なご苦労もあったと聞きます。そんな彼女であれば、同じく平民出身のアンジェリカを上手く導けるのではないかと思ったのです。


 幸いなことに、アンジェリカは基本的な読み書きは出来ました。抑々学院の下働きの就業条件に基本的な読み書き計算が出来ることがあります。学院の庭師の娘という伝手もあって雇われていたとはいえ、最低限の就業条件は満たしておりました。


「ダニー様のお傍にいるには、淑女教育を受けないとダメなんですよね」


 アンジェリカはそう言って淑女教育を受けることに同意しました。着慣れない豪奢なドレスを着て、けれど所作は平民のそれで、違和感しかありませんでした。それでも愛を貫くためにアンジェリカはやる気を見せていました。


 とはいえ、生まれて十八年、体に馴染んだ所作も慣れ親しんだ常識や価値観も、そう簡単に変わるものではありません。


 前女官長もそれは理解していたでしょうが、なまじ前女官長は向上心に溢れ、自らの力で立身出世を果たした自負もございましたでしょう。同じく平民から王族になろうとするアンジェリカに対する期待もあったことでしょう。その教育はかなり厳しかったようです。


 それでもアンジェリカはその教育に必死についていこうとしていたそうです。けれど結局は十日で音を上げました。


「あたしには無理です~~~」


 そう、ダニエーレ殿下に泣きついたそうです。


 尤もそれ以前から、それこそ教育開始の三日目から前女官長は自分ではアンジェリカに合わないのではないかと考えていたらしく、わたくしに相談しておられました。


 アンジェリカのやる気はともかく、彼女は『学ぶ』という習慣がございませんでした。全く下地のない状態で、学ぶという習慣のなかったアンジェリカ。彼女が集中して学ぶことが出来るのは十五分が限度でした。


 わたくしはそういう状況を前女官長から伺い、少しでもアンジェリカが学びやすいようにと前女官長やわたくしの教育係と相談して、彼女の教育カリキュラムを見直したりもしたしました。


 十五分学んで十分休む。その繰り返しで、初めの十五分で一つだけ教えたことを休憩後の十五分で身についているかを確認する。身についていれば次に進み、ついていなければ再度繰り返す。そのように教育を進めました。所作などは真似るところから始めたのですが、アンジェリカはそれ以前の問題でした。


 貴族の美しい立ち居振る舞いというのは、実はそれなりに筋力と体力が必要です。背筋を伸ばし美しく見える姿勢を保つには体幹を鍛えバランスを保つことも重要です。姿勢を正しく保つのはそれなりに疲れるものなのです。


 ですから、アンジェリカの最初のレッスンは立ち方・歩き方・座り方の基本動作だったのですが、アンジェリカはなぜそれが必要なのかも判らず、ただ平民の自分を王宮のお貴族様が苛めていると感じていたらしいのです。


 その結果、アンジェリカはダニエーレ殿下に泣きつきました。正確には泣いているアンジェリカにダニエーレ殿下が問い質し、聞き出したようです。


 そして、わたくしはダニエーレ殿下に叱責を受けました。否、あれは理不尽な言い掛かり、八つ当たりに近かったようにも思います。


「貴様は私の寵が自分ではなく平民のアンジェリカにあることに嫉妬し、アンジェリカを貶めるために前女官長と結託して、アンジェリカを苛んでいるんだな!」


 学院の授業が終わり、王宮にて王妃教育を受けていたわたくしのもとに先触れもなくやってきたダニエーレ殿下は、わたくしの顔を見るなりそう罵られました。


 きちんとダニエーレ殿下にはわたくしがどういう意図を以て前女官長を推薦したのかは伝えておりました。それに納得し『流石は将来の義妹、我が幼馴染。アンジェリカのことを大切に考えてくれているのだな』とまで褒めそやし、アンジェリカの教育係に前女官長を据えたのはダニエーレ殿下ではございませんか。


 あまりのことに呆れて何も言えないわたくしに代わり、ダニエーレ殿下を叱責なさったのは、その日の講師を務めてくださっていた王太子妃殿下でいらっしゃいました。ダニエーレ殿下のご生母で在らせられます。


「何を戯けたことを申しておる。ベアトリーチェはそなたの寵など望んではおらぬ。アンジェリカに嫉妬するはずもなかろう。ベアトリーチェはエルメーテと相思相愛なのだ。ベアトリーチェは今、(わたくし)に妃教育を受けておる。邪魔だ。とっとと()ね」


 お母上様にそう叱責されて、ダニエーレ殿下は不満げな表情のまま部屋を出ていかれました。


「済まぬな、ベアトリーチェ。我が子ながら恋に狂い視野狭窄に陥っておる。情けのないことよ」


 王太子妃殿下に謝罪されては受けるしかございません。ダニエーレ殿下の理不尽な罵倒には腹も立ちましたけれど、妃殿下のお苦しみを思うと飲み込むしかございませんでした。


 それ以降、ダニエーレ殿下はわたくしを敵視なさるようになりました。正確にはエルメーテ殿下とわたくしを。彼はわたくしたちがアンジェリカを不当に貶めることによって王太子位を狙っていると思ったようです。


 結局、前女官長はアンジェリカの教育係を辞することとなりました。その後はわたくしの側近候補の令嬢たちの教育係を務めていただくことにしました。側近候補たちはわたくしが王太子妃・王妃となった際の側近となります。ゆえにそれなりの政治的見識や教育は必要なのです。


 アンジェリカの教育係は、かつてのダニエーレ殿下の乳母が務めることとなりました。元乳母はダニエーレ殿下至上主義ともいえる人物で、ダニエーレ殿下に過保護すぎ甘すぎることから、王太子妃殿下によって解雇されておりました。その彼女をダニエーレ殿下は再び王宮へと入れたのです。確かに彼女であれば、ダニエーレ殿下の絶対的な味方でしょう。


 この人事に妃殿下は何も仰いませんでした。もうこのときにはダニエーレ殿下を諦めておられたのかもしれません。


 元乳母は恋愛至上主義なところがあり、身分を超えた真実の愛を得たと宣うダニエーレ殿下に感激していたそうです。我が君が何よりも尊い真実の愛を得られたと喜んでいたといいます。


 確か、元乳母は熱烈な恋愛の末に結婚したのだとか。以前何かの折にお母様が苦笑交じりに仰っていました。そんな彼女であれば、ダニエーレ殿下とアンジェリカの関係は何よりも尊いものに見えたのかもしれません。


 けれど、元乳母は肝心なことを忘れていました。彼女の大恋愛が容認されたのは、彼女が子爵令嬢で、夫が同じく子爵子息で、同派閥だったからです。身分の差もなく、政治的にも対立していない相手だったからこそ、容認された大恋愛だったということに彼女は気づいていないのです。彼女夫婦とダニエーレ殿下たちでは、何もかもが違っておりました。


 元乳母が教育係となったことで、アンジェリカが泣き言をいうことはなくなったそうです。ダニエーレ殿下の意を酌んでレッスン時間よりも休憩のほうが多いような状態でしたから、淑女教育は遅々として進みませんでした。


 漸く王太子妃殿下の許しが出て、アンジェリカが短い時間とはいえ、社交の場に出ることが許されたのは、婚約内定から五年後のことでした。ただし、社交を許されたとはいえ、それはアンジェリカが立派な淑女の立ち居振る舞いが出来るようになったということではありませんでした。どれほど時間をかけてもこれ以上向上することはないと妃殿下が諦めた結果でございました。


 その五年の間にわたくしは学院を卒業し、エルメーテ殿下と婚姻し、王妃教育も終了しておりました。既に第一子である男児も生まれており、現王太子殿下が即位の暁にはエルメーテ殿下が立太子するというのが大半の貴族の見立てとなっていたのでございます。


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― 新着の感想 ―
[良い点] とても作り込まれているのにテンポよく読めて、安心感があります。 [気になる点] ストーリーについてではなくて恐縮なのですが、 抑々(そもそも)や畢(ことごと)く という単語は日常ではあまり…
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