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男はサッと視線を逸らして口を固く閉じてしまった。
「‥‥」
「‥‥」
いつまで待っていても聞き出せない名前。
沈黙に耐えかねて、アーウィナは口を開いた。
「私は、アーウィナ・ユリサルートと申します」
「ユリサルート伯爵家の御令嬢か」
「‥!!」
ユリサルート伯爵家を知っているという事は、やはり貴族で間違いないのだろう。
「‥‥」
「‥‥あの」
もしかしたら迷惑を掛けまくるアーウィナには、名前を教えたくないのかもしれない。
アーウィナが肩を落としていると‥。
「‥‥‥ヴァーノン・デスモントだ」
「ぁ‥」
アーウィナの反応を見たヴァーノンは、どこか諦めた表情を浮かべている。
アーウィナは、その名前を聞いてある噂を思い出す。
デスモント公爵家には悪魔のような騎士が居る。
真っ赤な血のような髪に透き通るような赤褐色の瞳‥‥次期騎士団長だと名高い男。
悪魔の騎士、ヴァーノン・デスモント。
ヴァーノンが歩くだけで、道が真っ赤に染まる。
城下には愛人が数えきれないほど居る。
ヴァーノンに打ちのめされた人間は、二度と剣を握れなくなる。
目が合うだけで人を失神させる‥‥ヴァーノンはとても恐ろしいのだと噂で聞いた事があった。
アーウィナは結婚相手を探すのに忙しくて、そんな噂は右から左だった。
ヴァーノンは滅多に社交界に顔を出さない為、アーウィナは関わりが一切なかった。
しかし噂で聞くヴァーノンと、アーウィナの前にいるヴァーノンは全く違う人に見えた。
アーウィナにとってヴァーノンは、酔い潰れた見知らぬ女を介抱してくれた優しい人だ。
それにヴァーノンは、ただ顔が怖くて口下手なだけなのではないだろうか?
(‥‥私が、名前を聞いて怖がると思ったのね)
アーウィナはヴァーノンの固く握られている手を、そっと両手で包み込んだ。
「昨晩は私のせいでご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ありませんでした」
「‥‥!!」
「ヴァーノン様‥‥謝罪には、また改めて伺います」
ヴァーノンは赤褐色の瞳を大きく見開いて此方を見ている。
「‥‥どうされましたか?」
「いや‥‥」
「‥‥」
「‥‥」
「あの‥ヴァーノン様?」
アーウィナが首を傾げるとヴァーノンは静かに口を開いた。
「‥‥酔っていたとはいえ、俺が貴女に手を出したんだ」
「ですが‥」
「謝罪しなければならないのは此方の方だ」
「ヴァーノン様‥」
「だから貴女が、そんなに‥‥気に病む必要は無い」
「‥‥ありがとう、ございます」
ふにゃりと微笑んだアーウィナに視線を逸らしたヴァーノン。
ほんのりと赤く染まる頬は、アーウィナからは見えなかった。
「ヴァーノン様には確か‥‥婚約者はいらっしゃらないですよね?」
「‥あぁ」
アーウィナはホッと胸を撫で下ろした。
ヴァーノンに婚約者が居たら、それこそ顔向けできないどころの話ではない。
カーテンからは日の光が漏れている。
家に帰らなければと、アーウィナが痛む腰を何とか起こして、ベッドから降りようとした時の事だった。
足に力が入らずに、ペタリと床に座り込む。
昨夜の情事の激しさが原因だろうか。
アーウィナは、ふるふると体を震わせた。
一気に現実に叩きつけられたアーウィナの目に再び涙が滲む。
「すまない‥」
うるうるとした瞳に見つめられたヴァーノンは咳払いをした後に「お願いだから泣かないでくれ」と小さな声で呟いた。
アーウィナはズズッと鼻を啜る。
ヴァーノンはアーウィナにハンカチを渡した。
そんなヴァーノンの優しさがまた身に染みるのである。
「大丈夫か‥?」
「‥‥はい」
ヴァーノンが軽々とアーウィナを抱え上げた。
あまりの恥ずかしさと情けなさにアーウィナがヴァーノンの胸元に顔を埋めた時だった。