廊下
12月のある日のこと。
季節はすっかり冬になり、ウチの学校でも、マフラーや手袋をして登校する生徒が目立ち始めた。僕らの話題は、もっぱらクリスマスで持ちきりだった。もちろん、
サンタクロースは実在するか
、とかそんな野暮な内容ではない。クリスマスにどこで誰と過ごすか(これが1番重要だ)、どんなプレゼントを用意するか、とかそんな話だ。僕らにとってはそれが、世界中で今も飛び交っているどんな重大ニュースより大事だったりする。
赤と緑に飾られていく商店街。耳馴染みのクリスマス・ソング。光るイルミネーション。町全体が華やかな雰囲気で彩られる中、僕は放課後1人学校の図書室で、黙々と調べ物をしていた。お題目は、『スポーツ:ランニング学・人は如何にして速く走れるか』。読んでるだけで、暗澹たる思いが込み上げてくる。こんな、僕の人生において最も縁遠い本を読んでいるのには、もちろん訳がある。数日前、『走る人体模型』に出くわしたからだ。
4つ目の七不思議。『走る人体模型』は実在した。
正確には、それは『走る骨』だった。
人骨模型だ。放課後、理科室の前で身を隠して待っていると、そいつに出くわした。あまりにも当たり前のように廊下を走っているから、僕と伊井田は一瞬目を疑った。おりょうさんといい、もっと自分たちが異形な存在であるということを自覚して欲しい。簡単に一般人に見つかってしまうような幽霊は、幽霊失格なのではないか。
「そんな悠長なこと、言ってらんないっす」
骨は廊下を端から端まで走り終えると、息も絶え絶えそういい放った。骨のくせに、白いタンクトップに競技用のハーフパンツを身につけている。その格好は、まるで短距離走の選手だ。
「1分でもいい。1秒でも、タイムを縮めなきゃ……アイツに勝てない」
「自分、鍛えてるんで」
「スンマセン、もう1本いいっすか? 次はイケるかもしんない……」
話す内容も、本格的なアスリートのそれだった。僕らが見ている前で、骨は理科準備室まで戻り、再び『廊下ダッシュ』を繰り返した。
「タイムは!?」
「7秒47」
「あぁ〜!! 惜しい!」
成人男性の平均的な身長の、平均的な密度の骨が、『ほぼ50メートル走』で平均的なタイムを出して地団駄を踏んで悔しがった。タイムを計っているのは、ホルマリン漬けにされていたカエルの標本だ。骨や標本が、普通に出歩いて喋っている。いや、それはまだいい。もう慣れっこだ。しかし体育会系の幽霊というのは、何だかイメージに削ぐわない。爽やかな汗をかく妖怪なんて、今時働きづめの人間より健康的ではないか。幽霊や妖怪と言えば、不健康の代表格みたいなものだったのに。
「見てください、あれ」
骨は僕を無視して、さっき駆け抜けてきた理科準備室を指差した。見ると、今度は『筋肉』の人体模型がこちらに向かって猛ダッシュしてくるではないか。さすがに僕も悲鳴を上げた。
「……ゴオオオォォォルッ!!」
筋肉の模型は、雄叫びを上げて廊下の壁に激突した。
「イェーッ! タイムは!? なぁタイムは!?」
「マッスルさん、6秒35です」
「ヒューッ!!」
『マッスルさん』と呼ばれた2体目の人体模型が、その場でブレイクダンスを踊り始めた。僕は呆気にとられた。
どうやら”骨”と”筋肉”で、夜な夜な競争をしていたらしい。なんてアグレッシヴな人体模型たちだ。ビーカーやらプレパラートやらの付喪神が、理科準備室から飛び出して、そこら中で狂喜乱舞していた。あまりに騒々し過ぎて、僕は思わず耳を塞いだ。理科って……科学ってなんだったっけ?
「マッスルさん、さすがっス!!」
成人男性の平均的な体重の、平均的な筋肉量の人体模型は、明らかに僕よりもガタイが良い。僕は自分の、ペラッペラな胸板を見下ろした。『健康度』で幽霊に負けてしまうなんて、我ながら情けなかった。
「……チッ」
大喜びする『マッスルさん』の影で、さっきの骨が1人舌打ちをしているのを、僕は見逃さなかった。
「イヨォッ! 今夜も私の勝ちだったな、骨野郎!」
「……っるっせぇ」
「ハッハァーッ!! いつになったら私を抜かしてくれるんだぁ? えぇ!?」
筋肉の歓声が廊下に響き渡った。”筋肉一派”である三角フラスコやメスシリンダーが、勝ち誇った顔で理科準備室に帰っていった。薄暗がりの廊下に取り残された骨は、悔しそうに俯き、ガタガタと肋骨を唸らせた。
「ックショ……! ちょっと筋肉があるからってよ……でかい顔しやがって!」
「はぁ」
「俺は、もっと特訓して、アイツに勝たなきゃ……なんないっすよ!」
「なるほど」
やけに熱血漢な骨だ。骨は、空洞になった両目をメラメラと燃やし始めた。人間である僕より、よっぽど情熱的な骨だ。
「骨でも……」
「え?」
「ただの骨でも……筋肉に勝てますかね!?」
「えぇ……?」
骨が僕を見た。その目は、少し潤んでいた。空洞なのに。
「確かに、俺には筋肉はない……だけど、だけどそれでも早く走りたいんす! このまま引き下がれないっすよ!」
「はぁ」
「お願いします、お兄さん! 俺に……走り方を教えてください!」
「お兄さんって、僕のこと?」
「お願いします! アイツに勝ちたいんす!」
「お願いします!」
「お願いします!」
骨と一緒に、他の実験器具たちも一斉に頭を下げた。ちなみに骨一派は、アルコールランプとかバーナーとかだ。これこそ世界一どうでもいい情報、この世(?)で1番無駄な派閥争いである。僕はチラと伊井田を見た。伊井田は『自分の出る幕じゃない』とすっかり無視を決め込んでいる。こういうのは野球部のダビデ像、犬飼の得意分野なのだが、あいにく彼には霊感がない。ランプやバーナーに消し炭にされるのも嫌だったので、僕は渋々人骨模型に協力することに決めた。
「よぉし! 今からトレーニング行こうぜ!」
「オォッ!」
骨たちはそれから廊下を飛び出し、町中をランニングしに行った。その熱気に押し切られてしまったとも言える。
遅くなったので、その日は電車で帰った。終電間際の電車で、げっそりとやつれきったサラリーマンと隣の席になった。青白い顔に、焦点の合っていない目。きっと残業続きだったのだろう。いかにも不健康そうな現代の会社員と、50メートル走に情熱を燃やす人骨模型。七不思議って……人間らしさってなんだったっけ? なんて思いつつ、僕はしばらく電車に揺られた。
「……それで、こんな分厚い本を読んでるって訳ね?」
調べ物をしていると、立花さんが図書室にやって来た。僕は黙って頷き、それから小さくため息を漏らした。世間じゃクリスマスだなんだと浮き足立っているのに、何が悲しくて、人骨模型のためなんかに貴重な青春時代の時間を費やさねばならないのか。
「今日はミステリーじゃないのね?」
立花さんは僕の隣に座り、クスクス笑った。それからしばらく2人で、たわいのない話で盛り上がった。
「あの殺人事件……アレなんだった? 思い出せないわ。ほら、血の繋がってない姉弟探偵が、孤島で……」
「最後、犯人が日本刀持った探偵に襲われるやつ?」
僕も口元を綻ばせた。ミステリー小説と言うのは、中々語れる相手も限られてくるので、こうやって同じ話題で盛り上がれるのは実に貴重だった。
「そうそれ。私も読んでみたけど、良かったわ。トリックの出来はイマイチだったけど」
「あれは僕もお気に入りなんだ」
「ねぇ、もうすぐクリスマスじゃない?」
「うん……」
「そういえば最近、おりょうさんは?」
立花さんが尋ねた。僕は首を振った。
「見ないね」
あの日以来……自販機で買い物を頼んで以来、おりょうさんは姿を見せなかった。別に、毎日顔を合わせる決まりなどないので、特段心配することではないのかもしれない。もしかしたら僕に付き纏うのに飽きて、別の人のところに行ってるのかもしれなかった。あれほど鬱陶しがっていたのだ。それはそれで喜ばしいことのはずだったのに、僕は胸の内に、妙なわだかまりのようなものを感じていた。
「もう、一ヶ月以上になるわ。どこに行ったのかしらね……」
立花さんが心配そうに眉をひそめる。僕は無言のまま、ポケットに入れっぱなしになっていた腕時計を触った。
あの日、壊れて4時44分で止まったままの時計。2人には、あの白い闇のことは黙ったままでいた。無駄に怖がらせたくなかったし、僕自身、もう一度出会いたいと思えるものでもなかった。本能が、避けている。おりょうさんや、走る人骨模型は平気だが、あの行列は、無闇に触れるべきものではないような気がしていた。
僕は顔を上げ、窓の外を見つめた。外は薄暗く、どんよりと曇っていた。これから夜にかけて、雨になるかもしれない。僕はおりょうさんについて考えていた。もしかしたら、あの百鬼夜行のような行列と、おりょうさんがいなくなったことに何か関係があるのかもしれない……。
「ねぇ、私なりに、ちょっと考えてみたんだけど……」
不意に隣から、立花さんが僕の目を覗き込んで来た。それで、僕は一気に現実に引き戻された。近い。いつの間にか僕らの距離は、息がかかるほどに近づいていた。
「おりょうさんのこと。何か共通項があると思うのよ。おりょうさんが見える人と、見えない人の違い……」
「それは、つまり霊感があったってことでしょ?」
僕は少しドキドキしながら答えた。
「そうかなぁ……。私、今まで一度もそんな経験なかったのよ」
「だから、おりょうさんって幽霊に出会って、それで僕らに霊感が目覚めた……」
「だったら、犬飼くんは? 野球部のメンバーも、全員合宿でおりょうさんに出会ってるはずなのに、見える人と見えない人がいたわ」
「それは……幽霊にだって、色々と事情があるんじゃないかなあ」
「そもそもどうして私たちは、おりょうさんが幽霊って分かったのかしら?」
「えぇ?」
僕は眉をひそめた。何を言われているのか、イマイチ分からなかった。
「だって、あの格好だろ? 白装束に、三角巾……」
「そう。私、何だかちょっと分かったかもしれない」
「何が?」
「ちょっと待って。喉まで出かかってる……もう少しなのよ。私……ちょっと調べ物してくるわ!」
「立花さん?」
立花さんは弾かれたように席を立って、そのまま図書室を飛び出して行ってしまった。僕は座ったまま、唖然として彼女の背中を見送った。何だろう……調べ物? 何かを調べるなら、図書室ほど適した場所はないと思うけど……彼女は一体何に気づき、何処に何を調べに行ったのだろうか? ……まさか犬飼のところじゃないだろうな?
1人取り残された僕は、それからしばらくの間、『スポーツ学』の本に目を落とし……いなくなったおりょうさんの笑顔と、それに立花さんはクリスマスに何か予定はあるのだろうかと……そんなことばかり考えていた。




