とある王の独白
時間軸は本編「11 後悔」の二週目以降のお話となります。主人公の知り得ない王目線の幕間です。
※再掲となります。本編ページよりそのまま移動しました。
私室に備え付けられた湯殿で拭い切れなかった返り血や獣の臭いを消す。特に項や耳の裏は念入りに擦って桶にくまれた水で流す。
(皮肉だな)
嘲笑は穢れた水の流れる音に飲み込まれた。
「陛下、左丞相様がお見えに」
「すぐ向かおう。右丞相はどこに?」
「ここに」
「ああ、劉。待たせてしまったか」
「いいえ。この劉 莫愁、陛下の御前に立つ資格も御座いません。故に陛下が詫びる必要など無いのです」
「何を言う、私の我儘に付き合わせただけだろう」
湯殿を出ると、頭を垂れた侍女が控えている。小煩い老耄がまた謁見を望むというのならば、適当に話を聞いてやるしかない。
信頼のおける臣下が居た方が適当に話も流せるだろうと所在を問えば、項垂れた右丞相───劉がそこに跪いていた。
生真面目な男だ。
此度の失敗を国に帰っても引き摺っているようだった。無理も無い。逃げ出した化け物共は皆殺しにし、邑も跡形もなく燃やし尽くしたが、正体不明の女怪を取り逃したのだ。
否、正確には殺し損ねた。
(確かに手応えはあった)
首を刎ねた。さして難しい事でも無かった。
面白い事がなくても微笑みを絶やさぬように。そう自分を律してきたのと同じくらい容易く、仕留めた感覚はあった。
眼の良い黒ならば、任せても問題がない自信があったので任せた迄だ。その黒ですら見えなかったと言うならば、今回の騒動はむしろ僥倖と言えるだろう。
「面をあげよ、劉坊」
「陛下、そのような呼び方をされる程、私は幼くは────……」
分かりやすく落ち込んだ臣下の機嫌を取るのも王の仕事だと言う。何とも、可笑しな話だ。本来であれば機嫌を取られるのは私の方だが、これは利用価値のある男だ。暇つぶしに遊んでやるのも悪くは無い。
それに、私はそこら辺の王に並ぶつもりは毛頭ない。
(必ず四神の首を手に、天法山の頂きへ)
野望を胸に微笑むと、あんぐりと口を開けた劉が湯気で曇り出した眼鏡を取り、懐へと収めて頭を下げる。
「陛下、僭越ながら!」
「なんだ?」
「御身をそのように晒すのはいただけないことかと……!」
「はて?」
「服を来てください……後生ですから!」
「ああすまん。忘れていた」
誰も目を合わせぬので、失念していた。
開けっ放しの湯殿の扉から温い空気が届いていたので、まるで気が付かなかった。すぐに部屋をあとにした侍女も、こちらを一瞥もしなかった。
(なるほど。浴布を忘れていた)
すまんすまんと湯殿に戻ろうとすると、 私が取ってまいりますので!と劉が立ち上がる。
「いや、もうすぐ老耄がやってくるだろう。服を着ねば」
「では陛下は一度湯殿へ……!私が用意致しますから」
「はっはっは。何をそんなに焦っている」
「陛下が全裸だからです!」
だらだらと汗を流して狼狽する劉坊は本当に遊びがいがある。眼鏡を外した事も頭から抜け落ちたのか、そこら中に小指をぶつけただの、頭をぶつけただの言いながらも湯殿へと向かう姿はいっそ健気な程だ。
野郎の裸など、見ても不敬にはあたるまいに。
(滑稽なほど純粋な坊やだ)
私が動きやすい正装服に身を包んだ頃に浴布を持ってきた劉坊は、また大袈裟に声を上げるとへいかあああああと嘆いた。
「して、左丞相よ。私から何が聞きたいのだ?」
「何を仰います。私は主上の御無事が一刻も早くこの目で伺いたくここへと……」
「腕の一本も何処かへ落として来られず残念だ」
「陛下……!縁起でもない事を」
「右丞相は、陛下のお傍に居られながら、何故御守り出来なかったのだ。御身に穢れた血を浴びせるなど、考えられぬ。私が歳若ければ身を呈してでも、血を浴びたでしょう。なにより、良家の子息だからと甘やかされて居るのではないか?何せこのような若輩者が左丞相になるなど前代未聞の事ゆえ」
「左丞相よ。私は今とても悲しいぞ。私の目で選び、側へ置いた臣下を疑う事は私を疑うのと同義ではないか?」
鬱陶しい長髪が湿ったまま、玉座へと腰掛ける。手馴染みの良くなった肘掛けに凭れ掛かる。片肘をついて見下ろす老耄は、ここを発った数日前よりもでっぷりと栄養を蓄えたらしい。憎たらしいほどに元気な様子だ。
(主上、なぁ)
心にも無い事を。私が真の王になる事を最も恐れている者が、不敬な出鱈目を口にするな。
微塵も苛立ちが漏れぬよう、天子の微笑みだと巷では言われている笑顔を湛えたまま、嫌味を返してやる。
言葉の裏表があまり分からない劉が噛み付くが、かえって非難される。
襤褸布で隠してはいたが、返り血だらけの私を見た門番の青ざめた顔のおかしかったこと。遅れて出迎えに来た老耄が、僅かに隙を見せたのを、見逃しはしなかった。
王が血に塗れて帰城したのにも関わらず、直ぐにも駆け付けず、喜ぶ様を見せた臣下を誰が信頼するというのか。
左耳の水晶がりんりんと、音を鳴らす。
この老耄には、聞こえもしないだろう。
「陛下、失礼致します」
「ああ、頼む」
また上質そうな浴布を持った侍女が頭を垂れたまま、私の髪に触れる。見慣れた女では無かった。新入りだろうか。
伝統に乗っ取って伸ばしている長髪だが、殊更手入れが面倒臭い。すっぱりと刃物で切ってしまいたいが、そんな事をした日には、宮中が煩くなるだろうから、出来ずじまいだが。
「主上、何故私室で湯浴みをなされたのですか?私共が孔朱国から手に入れた薬湯を御用意させて頂きましたのに」
「左丞相であったか。水が枯渇した国で、そのような贅沢はもうやめろと言ったろうに」
「ですが……」
「私のような汚れを持ち込む愚か者より、明日を生きれるかも分からぬ民に水を使え」
「そのように手配して国を発ったはずだろう」
「ええ右丞相様。貴方様の仰る通りに、私は施しましたよ」
豪華絢爛な風呂場で、湯を垂れ流しにする大馬鹿者が左丞相を名乗っているというのだから、嘆かわしい。面倒なしがらみなど無ければ今すぐにでもこの手で刺し殺したい所だが、上手くは行かぬのが政だ。
私欲の為に各地へ向かうには、最も使える手駒だった。歳を重ねただけの知識と手腕はある。ただあまりに民を知らず、愚か者だと言うだけだ。
(宮も腐ってきたな)
そろそろ一掃する頃だろう。悪くは無い。
元々中丞相の息子であった劉を老耄より位の高い場所へ置いた頃から、この男は本性を隠せ無くなった。老い先短いからか、私の座を狙っているのが手に取るように分かる。
言葉の裏など、水晶を使わずとも理解出来た。この男が居る時は、まるで小鳥を嬲り殺しているかのように、鈴の音が鳴り止まない。
(不老不死でもあるまいに、どうしてそう生に執着するのか)
そろそろこの茶番にも飽きてきた頃、侍女の手が、左耳に触れた。そのまま、水晶が持ち上げられる。
「それに触れるなッ!」
激昂して手を叩く。思わず身を翻した先で、怯えた顔の娘が見える。やってしまった。
直ぐにその手を取り、優しく撫でてやる。
足元には、布が落ちていた。
「すまなかった。怪我は無いか?」
「ぁ……申し訳、ありま…せ…」
「主上!すぐにその娘の首を刎ね」
「そうはさせぬ。私が油断していた。これは今は亡き両親の形見なのだ。まだお前は知らされてなかったのだろう?」
なるべくゆっくりと言葉を選んでやる。はらはらと涙を落としながら詫びる侍女は、首を刎ねた女怪と同じ年頃のようだった。侍女頭から説明を受けぬうちに、仕事が宛てがわれたのだろう。
安心させてやるように微笑みかけると、大きく頷いてようやく娘から力が抜けた。
小煩い老耄は無視する。
(反吐が出るな)
何が親の形見だ。顛末を知っている劉は目を背けて口を開かない。
何の戸惑いも無く嘘をつけるようになってしまった。りんりんと、鈴の音が止まぬ。
「怖がらせてすまなかった。もう良い、下がれ」
「はい……御心遣い、感謝致します。この命尽きるまで、この失態は忘れません。必ずや、この国の為、陛下の為に尽力致します」
「大袈裟だな。私はもう気にしていない。また髪を拭っておくれ」
「嗚呼、主上……なんとお優しい」
とんだ茶番に付き合わされた。恐らく左丞相の手の者だろう。それとなくこれに触れろと言われていたな。
(油断していた)
あの小娘を切ってから、やけに気が散る。水晶が熱を持って燻っているのが手に取るように分かる。
「なぁ、左丞相」
「はい、主上。何でございましょう」
「私は、この国を救ってみせるよ」
「おお……!では、見つけられたので?」
「陛下?」
「餌は手に入れたも同然だ。すぐに炙り出してみせよう。国の仇の首をもって、私は真の王になる」
立ち上がって手を広げる。今は何も持たぬこの手に、憎い仇の首が掲げられる日を思うと、まるで恋をした青年のように心が踊った。
革命の日は、近い。