第3話 かくしごと
荊には苦手な話題があった。
勇者、魔王、魔法使い、魔術師、ドラゴン――、正確に言えば、元の世界では空想話でくくられる類の話だ。
育った環境のせいか、どうしても冷めた対応しかできなかった。
とはいえ、この世界に来て一つの季節を過ごし終えようとしている。
今や、魔法使いの知り合いも、ドラゴンの知り合いもいる。なんなら、荊自身が簡単な術式を書いた魔法人形を作れるようになっていて、駆け出し魔法使いと名乗っても申し分ない技術を手に入れていた。
荊は現実主義であり、体験したことは渋々でも認める傾向がある。
その法則に当てはめるなら、荊が苦手とする話題は増えることがなければ残り二つだ。
勇者と魔王。
世界征服をしようとしている魔王と、その魔王を討伐するために旅をする勇者――、そんな話を聞くと、荊は子供のごっこ遊びか、と首を傾げたくなってしまうのだ。その理由は荊が異世界出身だからであり、酸いも甘いも知った悪魔使いであるからである。
「あの、ごめんなさい」
遠い目をして勇者と魔王に思考を奪われていてた荊は、唐突な謝罪によって意識を現実に引き戻された。
「なんで謝るの?」
「私、その、荊さんに言ってないことばっかりで……」
言葉の綾ではなく、言葉の通りに真実だった。
荊も相当に秘密と不思議の多い男であるが、アイリスも負けず劣らずのものである。なんなら、二人の間だけで言えば、荊の方が秘密が少ないくらいだった。
二人の足元にいたネロが、かろやかに荊の肩へ乗り上げる。アイリスの言葉を肯定するように「にゃあ」と鳴き声を上げた。
荊はにこにこと人好きのいい笑顔を浮かべる。
唐突に背中を丸めると、アイリスに耳打ちするように顔を寄せた。
形の良い薄い唇が小さな耳に触れるくらいに近づく。ふと吐き出された息がアイリスの耳をくすぐった。
「い、いばら、さん――?」
湯気が出そうな顔色でかちんと固まってしまったアイリスは、どうしてこうなったと頭を働かせる。しかし、ちょっと首をひねれば触れてしまいそうな、もはや、触れてしまっている隣の青年が気になって、上手く思考が働かなかった。
彼女の頭にあるのは羞恥だけだ。
荊がくすりと音もなく笑ったのが吐息で伝わってくる。
「隠しごとをしたら、責めていいんだっけ?」
甘い響き。言葉の一音、一音を形どるようにゆっくりと動いた唇の感触が、アイリスの耳にしっかりと伝わっていた。
「ひ、え」
「はは、ひえって何だよ。そんなに怯えなくても」
ぱっと体を離した荊は爽やかに笑った。一瞬の蜜のような雰囲気など、すべてどこかにやってしまっている。
対するアイリスは耳を押さえ、ぱくぱくと口を開閉させた。喉が詰まったかのように声も出ない。
それすら愉快なのか、荊の楽しげな笑声は次々に花が飛ぶようだった。
そんな青年を制するように、ネロがぐりと小さな頭を荊の頬にめり込ませる。からかいがすぎる青年を見限るように、ぴょんと華麗にアイリスの肩へと飛び移った。
「ごめんごめん」
荊はネロがいなくなった分を補うように、アイリスの手から買い物用のバスケットを奪い取る。その中には買うものリストのメモ書きが突っ込んであった。とめはねがしっかりした達筆の文字、蘇芳の書いた文字だ。
「お詫びに俺がおつかいしてくるから、二人はここで待ってて。変な人についていかないように」
荊はその辺の座れそうな花壇を指さし、返事を待たずに人混みの中へと消えていった。
普段の過保護気味の荊ならば、アイリスを街中に置いていくなんてことは絶対にしない。今が特別だ。距離を取ってやるのが正解だろうという、気配りからの行動である。この状況を作り出した男が何を、という話ではあるが。
残されたアイリスはへろへろとした足取りで花壇に辿り着くと、脱力するように腰掛けた。膝の上にネロが降りてくる。
アイリスはからかわれた耳を隠すように手のひらを添えた。自分の手の感触を感じると、それとは全然違った柔らかで冷たい唇の感触を思い出してしまう。熱ある吐息と甘やかすような声色。
少女の細い首がかっと一瞬で赤に染まった。羞恥。もじもじと体を揺らし、居心地悪そうに縮こまる。
「う、うう……」
「馬鹿だなあ。意味もなく謝ったりするから付け込まれるんじゃん」
「意味もなくのつもりはないんですが……」
ネロは小さくひそめた声でアイリスを小馬鹿にした。間抜けだな、という感想を隠しもせず、呆れた様子で「良いように躾られてるね」と続ける。
「し、躾なんですか?」
「はあ? どう見たって躾じゃん。アイリスがすぐ後ろ向きなこと言うから、ああやって――」
恥ずかしいことして、黙らせようとしてくるんでしょ――と続くはずの言葉は、そこで止まってしまった。
「ネロ……?」
ネロの名前を呼ぶ声。この声によって、猫と少女の内緒話はぴたりと止まってしまったのだ。
若々しい男の声。
人混みの中から聞こえてきた声は、アイリスにもネロにも聞こえていた。二人は声の主を探してあたりを見回す。エリオスの街を歩いていて、ネロの名前を知っているのはギルドの人間くらいだ。
答え合わせをするように、雑踏から一人の男が二人の前に飛び出してくる。
荊とそう年齢の変わらなそうな青年だった。
短く硬そうな髪の毛は紫がかった黒色――いや、黒みの強い紫色だろうか。大きなたれ目は黒い虹彩で、左目の下にある泣き黒子と相まって、どれかと言えば幼げで可愛らしい顔立ちをしていた。
服装は戦闘を前提とした軽装備、腰に掛けられた黒の短銃、良い生地で仕立てられた服は、娯楽で狩猟をする貴族のようにも見える。
「やっぱり!! お前っ、死神のクソ猫っ――!!」
男はびっとネロを指さすと大袈裟なまでに声を荒げた。品のある服装とは程遠い言葉遣いだ。
ネロは胡乱げに水色のビー玉のような瞳を細める。飼い主の名前も自分の名前も正解であるが、男の顔に見覚えはなかった。ついでに、クソ猫呼ばわりされる覚えもなかった。
男はこぼれんばかりに目を見開き、ネロから視線を上げる。そこにあった驚愕の表情の少女を見て、男は更に眼球を押し出すように剥いた。
かたかたと顎を震わせ「はァ!?」と声をひっくり返らせる。
「んなっ、あ、アイリス!?」
アイリスは反応もできないほど驚いていた。
心臓がきゅっと収縮したまま元に戻らない。血液が身体に巡らず、身体の先から冷えが始まり、じわじわと痺れが伝わってくる。すぐに温度を感じることができなくなり、指先の感覚もなくなってしまった。
痙攣するように小刻みに震える瞳は、真っすぐに男を見ている。
「なっ、なんでお前がそのクソ猫と一緒にいんだよ!?」
男も男で天変地異でも起こったかのような狼狽え方だ。




