第44話 憎悪による呪いの詞
攻撃的な棘のある空気。対峙する荊とドルド。有耶無耶になっていた優劣が明確なものとなった。
この街の領主でありながら、闇そのものである男は酷く憤慨していた。対して、荊は余裕で小癪な笑顔である。
「……嫌がりはしても反省はしてないみたいですね」
荊は一仕事を終えてもなお、ドルドの前から動かなかった。
ドルドから溢れかえる怒気。アイリスを横取りされた、といきり立っていた時とは比べ物にならない。顔を真っ赤に染め、身体を細かく震えさせていた。薄い皮の下、額にはしっかりと血管が浮き出ている。細いものは何本か切れていても不思議ではない。
荊は呆れながらも、ある意味で感心していた。
降伏ではなく、反抗をとる好戦的な精神は、それに伴う戦闘力がなければ成立しない。しかも、首と片足くらいしか動かないというこの状況でだ。
呪術師としては相当に腕が立つのだろう。
ただし、こんな事態に陥っているのに、ここまで躍起になっている姿はもはや滑稽である。
「それじゃあ、もう一つの贈り物をあげますね」
まるで死の宣告だ。
ドルドはぴたりと時が止まったかのように固まった。それから、緩慢な動作で荊を見やる。
汗に濡れた皺の寄った首筋がてらてらと光っていた。冷気の漂う寒い部屋で身体を濡らしては寒くて仕方ないだろうに、汗は次から次へと吹き出している。
荊はふんと鼻で笑うと、冷たい目で嘲った。死を恐れる顔をしているが、恐れずとも、そう簡単に逃がしてやるつもりはないのだ。
「絶対に使わない力なんですが、今回は特別ですよ」
荊は手を打ち鳴らせない代わりに、ぱちんと指を鳴らす。悪魔召喚の所作。
「シャルル」
鎖に巻かれた真っ白の腕が二本、何もない宙に現れる。
荊の顔の横からにょきりと生えた妖艶な女の細腕。それも肘から先しかないという中途半端なものだ。同じく何もないところから伸びた鎖が、腕が自由になることを許さないと何本も伸びて絡みついていた。
透明感のある白雪のような肌。細く女らしい節のない指が、誘うように荊の顎を撫で上げる。
ドルドは唐突な怪奇現象に目玉を痙攣させた。目の前の青年が急に何者か分からなくなる。
ドルドには荊について予備知識があった。名もなき孤島で死神に遭遇し、ルマの街に戻ってきた者の口から聞いたことだ。死神だと名乗った青年は大鎌を振るい、氷の魔法を使い、恐ろしく狂暴な猫を連れていた、と。
それ自体は本当の話だが、この話には決定的な部分がかけている。
死神を名乗る男の正体は悪魔使いであり、契約する悪魔を呼び出すということ。そして、その異能を使いこなす。
ドルドがそのことを知っていたのならば、こうも簡単に篭絡されなかったかもしれない。
「楽にして下さい」
荊が手を伸ばすと、その手の上にシャルルの白い手が覆いかぶさる。黒い革手袋をしたす指と指の隙間に、真っ白の指が絡みついた。
ぺたりと重なった手は大きく広げられ、親指と薬指がドルドの左右のこめかみを押すように添えられる。
「生体機能を治癒します」
それはシャルルの秘儀であった。
治癒という異能が可能にする技。衰えた生体機能を回復する――、ようは寿命を延ばす力だ。力を永続的に使い続ければ不老ともなる神秘の力。
しかし、それは命の理に逆らう技であり、荊がドルドに断ったように絶対に使わない力であった。実際、この力のことを荊は契約する悪魔たち以外に公言したことがない。一生使う気もなかった秘めた技なのだ。
強すぎる力には、相応の代償が必要となる。
荊の魂が持つ精力は悪魔五体と契約したうえで、ほとんど限度なく使っても疲労もないというほど膨大である。シャルルの秘技は、その荊の精力を根こそぎ持っていくほど精力を使う。並大抵の悪魔使いでは絶対的に精力が足りず、使うこともできない御業だ。
そんな禁じ手を使おうと決断するくらいには、荊には怒りがあった。人の命を蔑ろにする狂人に対して、絶対に逃がしはしない、どうしたって罪を償わせるという強い意思。ドルドがこんなに辛いのならばいっそ死んでしまいたい、と思うところがスタート地点だと荊は思っていた。
「これで貴方は長生きできる。末永く苦しめよ」
荊はドルドの顔を掴む指にぐっと力を込める。
身体の機能を回復するという効果によって、ヘルの氷によってできた怪我も治っていく。手や腕やにできた穴が塞がると刺さっていた杭は霧消した。身体に絡みつく氷の蔦はそのままであるが、粉と化した骨も元に戻り――、いや、元よりも頑丈な状態に回復され、あっという間にドルドは五体満足に戻った。
見た目は老人のままである。変化はない。
しかし、生体機能が回復されたことはドルド本人が一番実感していた。加齢による節々の痛みはないし、視界にかかる霞みもない。妙に頭もすっきりしているし、何よりも身体が軽いのだ。
年を重ねるたびに鈍っていた五感が取り戻された奇妙な感覚。
そうなると、彼には下腹部にある異物が一層に不快に感じられた。先ほどまでよりも冷たいそれは、肉欲に溺れることを許さないどころか、普段の生活にも違和感を与える。
唇を接着していた氷も融けているのに、ドルドは一言も言葉を発しようとしなかった。怒りに染まっていた顔もいつの間にか青白いものに戻っている。むしろ、その顔は今までよりも老け込んでしまったように見えた。
「ありがとう、シャルル」
荊の手がドルドから離れる。シャルルは名残惜しそうに荊の手の甲を撫でた。それから、じゃらりと重い鎖の音を響かせながら姿を消す。
――結構きついな。
荊は静かに息をついた。さすがに疲労が残る。身体が気だるさを訴える。それを誤魔化すようにぶらぶらと手首を揺らした。
残ったものは氷の蔦にがんじがらめにされた老人、未だにぐずぐずと鼻を鳴らすペネロペ、努めて平然を保っている荊、そして、――飛び出した小さな背中、瑠璃色の羽。
「っ――セナ君!?」
殺気に満ち満ちていながらも、ずっと静観を貫いていた少年は勢いよく飛び出した。荊を押し退けて前に出ると、ドルドの心臓を掴み取るように小さな手を突き出す。
シャルルの秘儀の後でなければ、荊は制止に動けていただろう。逆を言えば、この時以外でなければ、セナがドルドに近づくチャンスはなかった。
荊はドルドから距離を取らせるためにセナへと手を伸ばす。今はドルドの四肢は自由なのだ。その場からは動けなくても、近づけばドルドの方から触れることができる。呪術師であるドルドに触れられるのは得策ではない。
荊の指先が華奢な背中に触れるよりも先にセナが口を開いた。
「――――――」
音吐朗々に読み上げられる呪詞は、荊には判別できる言語ではない。淀みなく紡がれる音の羅列。呪いの言葉であるのに、セナの口から出る音は神聖なものに聞こえてくる。
荊に抱えられたペネロペが涙に歪んだ視界に兄の姿を映し、小さな声で「色欲の、呪術」と呟いた。
荊は伸ばしていた手を下げる。
これは少年にできる復讐で、自分が邪魔をしてはいけないと思ったのだ。
ドルドは抵抗もしなければ、言葉を口にすることもしなかった。あんなに求めたセナが手の届く距離にいるのに、呆然とした目は虚空を見つめるばかりだ。
「ッ――粗末なもんおっ勃てるたび、串刺しになる気分はどうだよ! クソジジイが、一生っ、死ぬまで、苦しめっ!!」
セナはぼろぼろと涙を落した。
嗚咽をこらえ、肩を震わせる少年の心がこれで晴れることはないだろう。それでも、今までとはきっと見える世界が変わるはずだ。
「お、にちゃ――!」
静かに見守っていた荊の腕からペネロペが飛び出す。
セナの隣に並び立つと、いっぱいいっぱいに腕を振り上げ、ドルドの頬を平手打ちした。力のない一撃は物理的な痛みはなさそうだが、込められた想いは一入である。
「ぼっ、僕は! 僕は、おっ、お前を、絶対に、絶対に許さないからな――! あ、謝っても、駄目だ! 絶対、絶対――、う、っうう……!!」
ペネロペはセナの手を握ると、一緒になってわんわんと泣きだした。呪殺された祖父、呪術媒体にされた母親、ここにいない人の分も恨み言を言っているようだが、上手く言葉になっていない。
それでも、ペネロペは一生懸命にドルドを責めた。息が詰まりそうになりながら、必死に声を張る。
双子から敵意をぶつけられたドルドは、既にセナの呪いに囚われていた。セルクの時も呪術をかけてからの顕在が早いと言われていたが、それ以上の速度である。
色欲に呪われた老人は喘ぎ声とともに呻き声を上げた。性的興奮に溺れながら、決して外れない貞操帯に苦痛をもたらされている。虚ろな目は何を見ているのか。聞き苦しい声は理性のある人のそれではない。
「――っ、――――!!」
「うっ、うう。うわあああああん!!」
ペネロペとセナは号泣していた。お互いの手を力強く握り合い、自分が一人ぼっちでないことを確認すると、一層に涙が溢れてくる。
荊はぐっと眉間を押さえる。どうしてもこの双子のこととなると涙腺が緩みやすかった。どうにか自分の涙を押さえこみ、二人の背中を慈しむように見やる。
これからだ。
この二人だけではない。ドルドに害されていた全員が新しく道を歩き始める。今日で悪鬼の首は取ったが、悪夢が消え去るにはまだまだ時間が必要だろう。
――皆が、笑える日がきますように。
荊はすっかり善人的な思考が染みついた頭で、関りもない他人の幸せを願った。心の中でだけでのひっそりとした声に荊は苦笑する。
悪くない気分だった。
しかし、そんな気分は一瞬にして消え去ってしまう。
「――ドルド卿の魔力?」
荊は不意に感じられた大きな魔力に、ぱっと窓の外へ顔を向けた。魔力はドルドのものであるが、その発生源は本人ではなく、この屋敷の外にあるようだ。
視界に映る異常はなかったが、耳には甲高い咆哮が聞こえてくる。じっと見ていると、窓の外に一瞬だけ光輝く何かが横切ったのが見えた。
その影は飛行物体だった。しかし、宵闇色をしたツクヨミの影ではない。
荊がその正体を確かめようと窓へ近づくよりも早く、頬に涙を伝わせたままのセナが窓枠に飛びつく。きょろきょろと忙しなく視線を動かし、上空に何かを探していた。
目的のものを見つけ、セナはぎょっと目を剥く。少年の目には金色の巨大な怪鳥が映っていた。




